発想の源泉を知る

 

自分の持っている感覚において、

何か文章を書きつけることがある時に、

「言葉が出てこないことは、絶対にない」という、

確信にも似た、そこそこ強い思いがあります。

 

実際には、そういう思いを前提として持っていて、

ある種、訓練を積み重ねてきた結果でもあるのですが、

それより前に、「何かは出てくる」と思っている、

その思い自体があるからだろうと考えています。

 

特に、絵や詩を描く/書く人であれば、

その表現に則したものになるでしょうが、

発想が途切れないような努力は必ずしているはずです。

 

元来、この世において、全くの独創性に富むものはなく、

それらはどれも、既存のものの組み合わせであったり、

場合によっては、焼き直しであるという捉え方があります。

 

完全に新しいものが生み出せないというところでは、

諦めにも似た気持ちはあるかもしれませんが、

時代や世の中の風潮を感じ取って加味したり、

自分なりの味つけをしたりする余地はあるので、

そこにこそ、腕の見せ所があるような気がします。

 

あとは、何か斬新・新奇なものはないものか、

それが自分にとってなのか、世の中にとってなのか、

どちらの区別をつけることもなく、

気の赴くままに、目に映り、耳に入るすべてを、

すべからく素直に受け入れる気持ちがあると、

自然とそういうものに巡り合っていくものです。

 

自分の場合で言えば、どういう表現が印象に残るとか、

その人の言葉遣い、言葉の選び方に意識が行くので、

そういうものをすくい取って、心の引き出しにしまっています。

 

これは不思議に思うのですが、たくさん書くことをしていると、

自分の好みの傾向や、特徴みたいなものが次第に醸成されていくもので、

最初から、こうしよう、これが自分の表現だなんてことは、

振り返ってみても、あまり意識はしていなかったと気がつきます。

 

時々、これは読む人にとってはわかりにくいだろうな、

しかし、自分にとってはわかるようになっていることがあって、

その時期だから思ったり、感じたりしていることを、

直接的に書くのではなく、暗号的に書くことがあります。

 

あまり、振り返って書きつけたものを読み返すことはないのですが、

読めばきっと、こういうことを言いたいのだなとわかるでしょうし、

そういうものは、あえて読み返さずとも、

自分の印象に、結構強めに残っていることもあります。

 

また、巧拙や遅速において、よく言われるのが、

巧遅よりも拙速の方が、手直しが効くので、

ちまちまやらない方が良いというのがあります。

 

言葉においては一定程度できているとするならば、

あとは、他のことでも大いに活用していくべきですね☆