知性を何ととらえるか

 

知性と品を重んじる人は、世に一定数いると思いますが、

果たして、何をもって"知性"とするのか、

そこに一定の合意があるかはわからないものです。

 

もう少し、かみ砕いて言うとすれば、

何をもって"頭が良い"とするのか、

誰かが「あの人って、頭が良いよね〜♪」と言う場合に、

どういう風にして判断しているのかを、

改めて考えてみると良いと思います。

 

学校に通っている間や多くの場合では、

テストの点数がどの教科でも高いことや、

雑学やウンチクを多く知っていることをもって、

"頭が良い"と判断しているように思います。

 

あるいは、当意即妙と言うように、

パッと言われたらパッと切り返す、

しかも、その返し方が面白ければ面白いほど、

確かに、頭の回転は早いとなって、

"頭が良い"となっていることでしょう。

 

そうなってくると、同じように言っていても、

人によって評価や判断の基準が異なっていたり、

"頭が良い"ことの合意が取りづらかったりして、

これをもってそうであると言い切りができなくなるものです。

 

ここで、もう一つ考えるきっかけを提出してみると、

"教育"というものは、学校に通っている間を指すのか、

あるいは、学校に通っている以外でもあてはまるのか、

これも人によってとらえ方が異なるように思います。

 

"教育"を学校に通っている間だけと限定すると、

そこではテストの点数をいかに高く取るかとか、

進学のための勉強に集中するだけになりそうです。

 

しかし、人は学校に通い終わってから、

社会に出て活躍する方が、長い時間を過ごすものですから、

もっと長い目で見て、学び続ける姿勢は必要だと思います。

 

そして、学校に通ってきたこと自体の、

勉強をする習慣とか、学ぶ意欲や姿勢などがあいまって、

"教育"の成果が、少しずつ現れてくるようにも思うものです。

 

人は生きていく以上、何を知っているかと同様に、

一体、自分は何を知らないのかということを知り、

知っていることは深めれば良いし、

知らないことは新たに知っていけば良いだけです。

 

また、知っていることとそうでないことを分けるように、

自分の物事を見る目や、考える枠組みなどが、

どういう背景や影響を受けているのかを把握することで、

自分の立場や、ものの言い方に対しても自覚的になるものです。

 

そうして考えていけばいくほどに、

多くの要素はあるし、それらがお互いに関連もしているもので、

容易には"頭が良い"とも言い切れないし、

言うにしても、この観点においてはそうであるというように、

少しばかり限定的にもなってしまうものです。

 

せめて、こうして考えていくことを繰り返していくことが、

"頭が良い"ことを知る道のりなのかもしれません☆