自分は空っぽだ、そんなことを思うと、
少しばかり寂しい気持ちにもなるものです。
空虚、空洞とは、中身がないということで、
それは、満たされていないということにもつながるものです。
これは、決して月極駐車場の「空」ではない、
実存とか、満足とかに関わることのように思います。
月極も、「げっきょく」と読んでいけないことは、
蛇足ながら、つけ加えておきますが、
このあたりを掘り下げていくとどこにつながるものか、
かなり手探りで、マンホールの下を行くことに近いものがあります。
自分は何も持たない、何もないということは、
いくらかの知識、経験、仲間などのあらゆるものが、
十分には備わっていないという認識・自覚になり、
ある意味では、自分を低く見積もり続けることになります。
これは、実際にはコップから水が溢れるように、
満ち満ちてはいないということではありますが、
コップの中に半分水がある時に、どう捉えるか、
その差異が、結局その後のことを決めている気がします。
その詳細は、ここでは割愛しますが、
ただ、どんな人にとってもありがちですが、
別の人から見れば、良いと思う、素晴らしいと思うことを、
肝心の本人が気がついていないことがあります。
得意と苦手が表裏一体、つまりはそういうことかもしれません。
そのようにして翻って考えてみると、
「空」であるのは、ある種利点にもなり得るわけですね。
呼吸や意識で、自分の真ん中を通る風のひと吹きのように、
ただひたすらにスーッと通すというのは有効で、
途中に、遮るものがないということは、
滞ることがないということにつながります。
心に曇りのない、不純物がないのは、
そこに映るもの、入るものが良いものであれば、
そのままに良いものであり続ける可能性があって、
その純粋な状態は、むしろ奨励されることでしょう。
いろいろな煩悩というか、執着というか、
日々過ごしていくには、煩雑な事柄が多いもので、
何か無心になるというのも、必要なことかもしれません。
そういう時にやるべきこと、やってみたいことのひとつには、
「アウトドア般若心経」で、街中で見かける看板でお経をなす、
それを修行と見立て、取り組むべきものがあります。
こういうのをやり遂げる時、きっとあなたは何かを得るでしょう☆