縁は異なものとして

 

たとえば、新宿や渋谷の駅やその周りを歩いている時、だいぶ多くの人たちと行き交うわけです。

当然、それぞれに行き先があるのだろうし、それぞれに会う約束をしている人もいることでしょう。

電車の一日の乗降客数を知ってみれば、何十万〜何百万人の人が移動しているわけで、個人ひとりひとりが誰であるというのは把握しようがないものです。

そして、自分においてもその中に見知っている顔ぶれを見ることができるのか、もともとの知り合いから数えても、数人いるかどうかということでしょう。

特定の時間に予定があるともなれば、自分の目的を果たすべく行動をしていくわけで、関わる人はそれほど多いわけではありません。

休みの日が特にそうで、それの繰り返しが何度もあるわけですが、ふと思えば、同じようなところを行き来していても、ついぞ知り合う機会すらないという人がいて、それがむしろほとんどということになります。

顔を知っている、名前を知っている、顔と名前が一致する人が果たしてどれくらいいるのか、生きている年数を数えても膨大なことにはならないはずです。

すれ違うだけの人もいるし、物理的に近くても縁遠い人はいることを思えば、出会って親しく交流する仲になったり、それなりに交流したりするだけでも、随分と貴重なことだということに気がつきます。

こんなにたくさん人はいるのに、一生関わらない人の方が多いというのは、なかなかシビアなものだなと思います。

自分にしても、気の合う人やそうでない人はいるものですが、そのようなことを思えること自体実はありがたいのだなと思います。

願わくば、自分のことを面白いとか必要としているとか、そう思ってもらえるように日々懸命に取り組むことは必要でしょう。

一緒に過ごせる時間があればそれで十分ですし、それがまた楽しい時間であれば嬉しいもの、さらに次の約束もできるのであれば、もう何も言うことはありません。

たとえ、諸々の事情でお互いの進む道が異なろうとも、そういうことがあったこと自体に喜びを見いだせるのか、それによって今後の進み方も変わることでしょう。

これができているのが、ミュージシャンのマイルス・ケネディという人で、この人のインタビューを読んだ時に強い感銘を受けました。

自分において、こういうことができているのか、それもまた日頃の積み重ねによって明らかにしていくほかないのです☆