自分の語る言葉を思う

 

自分の語る言葉が、たとえば日本語として、

時々、それをどのように語っているのかを、

振り返ると良いのではないかという、

そんな、少しばかり込み入った話のひとつです。

 

これはもう比較でしかないのですが、

英語を話す時には、身振り手振りも含めて、

少しばかり大仰に(テンション高く)なるようなもので、

何をどう語っているのかというのか、

気持ちの面であったり、与える影響であったり、

何かしらに関わってくるもののように思います。

 

多くの人にとっては、仕事をしている時に、

社内の人たちと、取引先の人たちとでは、

気持ちの親しみ具合や取り扱う内容によって、

語り方が異なるのを意識してもらえると、

想像をするに容易なのかなと思います。

 

そして、それが家族や友人と語り合う時とでは、

当然のように、使う言葉や語り口が異なるはずなので、

あえて、自覚的になってみることも必要ではないでしょうか。

 

自分自身は、どちらかというと考え込んで話すことが多いので、

時々、思ったことを思うように語る人を見かけると、

その真率な素早さの、その様子に驚くとともに、

ある意味では、迂闊なのではとも思慮してしまうものです。

 

それに関連して言えば、敬語や謙譲語などを用いず、

自分は自分の言葉で語るのだという人もいるかもしれませんが、

これらを堅苦しいものばかりととらえない方が、

適度な距離感を保つことや最初に距離を測ることもできるので、

知らないよりかは知って、用いた方が良いように思います。

 

そして、同じ日本語を語っているとしても、

東西南北、それなりに地域性は分布しますし、

時代を振り返ってみれば、今と昔とでは異なるものです。

 

そこでは、その地域ごとの特性みたいなのもあるし、

気の強さや我慢強さなど、受けている影響もあって、

それによって、自分がそう話しているというようになります。

 

自分なりの言葉遣いをするのだと思ったとしても、

それが、どういう背景や影響があることを思ってみるとか、

あるいは、このような文脈や系統で語りたいのだと思えば、

それを頼りにしてみるのも、まずは良いのかもしれません。

 

自分の語る語り口を、時には点検することによって、

何を語るのかという内容にさえ関わってきますので、

何を理想とするのかを考えておくのも興味深いところです☆