行間にこそ真意あり

 

言葉や文章自体の、そのものの持つ力というものは、

計り知れないほどに大きいものがあると思っていますが、

それに加え、そこに書かれていないことですら、

一定の影響力があるように思えてなりません。

 

これは単に、余白の部分をよく見ることでもないし、

光に透かしたり、あぶりだしたりということでもありません。

 

「行間を読む」という表現があるように、

果たして、言外に何を言わんとしているのか、

言わないことで、言いたいことを伝えるという、

神業めいたミラクルCのようなことも、

ある意味では、できるのではないでしょうか。

 

実際に、話す時にも、顔の表情や身振り手振りがあって、

何を言っているかに加えて、何を伝えたいかという、

少し異なる要素も出てくるのではないでしょうか。

 

相手が何を言おう=伝えようとしているのか、

しっかり汲み取れるかどうかが重要ですし、

お互いにそれをしようとする意思があれば、

それ自体、とても有意義なことだなと思います。

 

国語の読解力の問題における、作者の意図は何か?

あるいは、アーティストの何を表現したいのか?

受け手であることが多いと、どうしても深読みをするクセがあり、

しかも、当の本人はそれほど思っていないこともあり得ます。

 

そうした、他の人の解釈が入ったり、構成し直されたりすると、

前向きな意味での、新しい解釈や理解の仕方が生まれるかもしれません。

 

一方、そうではない場合には、意見や事実が歪曲してしまうので、

世に出る前に、本人に確認を取るのを怠ってはいけません。

 

内容が、繊細なものであれば、なおさらというわけです。

 

そうして、自分の中で恣意的に行っている、人の手が加わると、

額面通りに受けるのが良いのか、少し裏を読むべきなのか、

ここまで来てしまうと、もはや言葉の"ある・なし"が、

伝える意思の"ある・なし"とどう相関するのか、

かなりややこしいことになってしまいます。

 

そうなると、変に技巧的になることもなく、

変に偏ることもないようにして、

素直に表したものを、素直に受け取るというのが、

最も効率が良いということになりそうです。

 

そうするためにも、物事を的確に描写する語彙力や表現力が、

その人の知識や経験とも密接につながりながら、

言葉や文章を書き連ねていくということをしていく必要があります。

 

ただ、紙幅の都合、そこに改行のある限り、

行間を読むクセだけは抜けないのかもしれませんね☆