同じことを聞いても、出方は異なる。
最近そんなことを思いながら、本を読んだり、
誰かの話を聞いたりすることが多くなっています。
言葉は同じであっても、思い浮かべるものに差はあって、
特に、発信している側と受け取る側でも異なるでしょうから、
そこに興味を持つようになっているというのはあります。
例えば、「赤」という場合、英語では"RED"、"CRIMSON"、
"SCARLET"のように、使い分けがなされているし、
日本語においても、「赤」、「朱」、「紅」などあります。
およそ思い浮かべて、考えていることに大差はないでしょうが、
微細なところでは異なるというのは、思っている以上にある気がします。
このように、受け取る側の解釈が多くあるのも興味深いけれど、
発信する側の、真意みたいなのをしっかり汲み取って、
それをまた、別の機会で伝え切れているのか、
自信があるかと言えば、揺らぐ気持ちがあることは否めません。
果たして過不足なく、受け止めきれているのか、
そこの前提のところに疑問符を投げかけてみることで、
以前とは異なったように受け取ることがあるかもしれないので、
日頃の自分の受け止め方を省みるというのは、
あるいは必要なことなのかもしれません。
そのように考えてみると、発信する側にもいくらか責任があって、
多義的な言葉を用いたり、曖昧な表現を持ち出したりしてしまうと、
その含意にグラデショーンのような幅が生じてしまうので、
鮮明なイメージを提示できるように、的確に選んでいく必要はありますね。
聞いた言葉を、単純に伝える(はずの)伝言ゲームにおいて、
なかなかそれがかなわないのは、耳で捉えて言葉を発する間に、
何らかの恣意的な操作が加わってしまうことが理由なのか、
機能としての耳や口に、何ら異変はないだけにそう思います。
多分に主観的な部分の多い人類、ヒトにおいて、
客観的に物事を、同時に捉えるというのは貴重であって、
それだけに重宝される理由のひとつになり得るのだと思います。
ただ、日本語においては、詩歌や俳句、短歌の類のように、
二重の意味が含まれていたり、想像する余地があったりする、
表現の豊かさにつながるような日本語の巧みな使いこなしがあるので、
最初から、その淡いの部分を切り離すこともないでしょう。
普段においては、余計な過程が少ないのが円滑に進むわけなので、
認識の仕方と、視点の推移、どちらも柔軟にやっていきたいですね☆