今時は、「茶をしばく」と言うのでしょうか、
それとも、俗語のひとつとしてあるのでしょうか、
詳細については、わかりかねるところが多いものです。
結局は、喫茶店・カフェで「お茶をする」ことなのですが、
お茶を一緒に飲むことだけでなく、会話を楽しむためでもあって、
お茶自体は、コーヒーに代替されることの多い今日この頃でしょう。
竹馬の友のような人と久闊を叙するのみならず、
街行くステキな女性に、ふと声をかけて、
親密になろうとする場合にも用いられるものですが、
そうして、何をどう話していくかによって、
心の距離が縮まることが好ましく思います。
ここで、大切というか、至極当然のことなのですが、
会話の内容がどう繰り広げられるかの方が、
どれだけの時間を話したかよりも比べるまでもなく重要で、
長い時間をかけたから最高というものではないのです。
これは、自分自身の体験でもわかることですが、
たとえば二人か三人くらいで会話をしている時に、
話題は尽きないし、ポンポン弾むように会話が続くのなら、
結果として、長い時間が経っていたということはあります。
逆に、まるでお仕着せの一問一答方式かのように、
「〜ですか?」、「はい、そうです」のように、
味気ない会話ばかりが続くようでは、
結局、お互いにわかることはほとんどないような気がします。
最近、自分自身の意識している「意識の階梯」において、
その人の真ん中にあるような考えや、大切にしている思いまで、
自分が話したいか、相手が知りたがっているか、
あるいは、その両方かで会話の内容が繰り広げられない限り、
決してお互いの(心の)距離は縮まらないような気がします。
そういう、人ひとりの成り立ちのような、土台の部分なくして、
どうして、その人の本質を知ることができるのだろうか、
少なくとも知りたいと興味を持つ人がいるのなら、
そこまで聞き知りたいなという思いは日増しに強くなっています。
心の奥底からの、その人となりを知るためには、
じっくりと会話の内容を掘り下げていく必要はあって、
数時間〜のような根気強さが求められるかもしれません。
自分自身の心の動きで、何をどう話したら、
あるいは、何をどう話したいのかがあるのかで、
その人への信用度合いを推し量る事柄はありますが、
それはここで明かす内容ではないので、それはまた別の話になります☆