鏡に映すように

 

人それぞれの思いや感情があって、それはもちろん大切なことなのですが、どこか自分自身の固有のものとして固執することにもつながりやしないかと、危惧を覚えることがあります。

自分の振る舞いだけでなく、人の振る舞いも気になってしまうとか、良いかどうかの判別を、理屈か感覚のどちらかに寄りすぎてしまうとか、その時々で出てくる気がします。

柔軟なところとそうでないところ、強く主張したいところとそうでないところ、自分の中で切り替えや使い分けができれば良いのでしょうが、なかなかそうもいかないわけです。

これを、もう少し限定的に考えると、たとえば、自分の発想の枠内だけで"書く"とすると、どうしても一定の傾向や何らかの特徴が出るに収まるので、これをどうにか打破できないものかと考えるものです。

小説や物語など、自分ではない誰かを多く登場させるにしても、少なからず自分の一部分が反映するので、いかに自覚しながら、いかにそこから離れることができるのか、工夫の余地はないかと探し続けているようなことでしょう。

ある部分では、自分自身が女性になったつもりで書くのでも良いですし、また、女性になったつもりで書く男性のように自分自身で書くと、あちらこちらへ行きながらやってみると柔軟なものが出てくるかもしれません。

今回はこういう感じ、またある時は別のというように、取り組む内容や時期によっても、今はこの角度でやっているというのがわかれば良いなと思います。

歌の歌詞にしても、毎回同じようなことを歌うより、なるほどこういう歌い方もできるのかとなるように、歌詞においてもいろいろな場面や風景、心情などを描けると良い気がします。

これは、書く人と編集する人が異なれば、そういう効果が自ずと出てくるように、多くの視点を持つというのを、"人数の多さ"でもってかなえることのように思います。

身近な家族や友人に見てもらうとか、自分自身で見るにしても一旦時間を置いてみるとか、書くと読むので意識を切り替えるようなことがあると、冷静にわかることも多いはずです。

そもそも、自分の視点を固定するから、何を見ても同じようになるのであれば、体勢を逆さまにしてみるとか、寝っ転がってみるとかしてみると良いかもしれません。

それはまるで、鏡に移せば世界が反転するようなことでもあるので、まさに鏡に映すようにして、こういう工夫の仕方を自分の内に持っておくと良いと思います☆