頭の中の迷路

 

別段、何かに迷っているわけではございませんが、自分の中の変化に対して、どう折り合いをつけていくか、それについては結構頭を悩ますものです。

たとえば、今進んでいる道があるとして、この道をそのまま行くのか、あるいは、別のまた道を行くのか、それをいつかは決めるタイミングがやってきます。

それは、"HOW(どうやって)"のところで対処していく問題なのか、もう少し手前の"YES/NO(はい/いいえ)"のような可否の問題なのかの差異があるように思います。

基本的なところから大きく逸れるようなことでもなく、行きつ戻りつ何かを見定めようとしているし、あるいは、自分の立つ位置、居場所をどこに定めるか、そんなことも考える必要があるということなのかもしれません。

きっと、どこに寄りかかるわけでもなく自分の意志で選び取っていく、そういう誰に対してでなく自分に対する、強めの気概が今は必要なのだなと思います。

そして、時間的にも場所・物理的にも、これらはいつも一定でなく絶えず流れていくわけですから、この世界のどこかに確固たる自分のスペースがあるわけでもなく、今はそこにいるくらいのことなのでしょう。

もう少し大きな幅で見てみると、今はそこにいる、しかし、明日は?来年は?数年後は?そんなことは予想はできても、実際にどうなるのかだなんてことは誰にもわからないものです。

昨日が来て今日が来るように、今の毎日にしてもまったく同じ繰り返しではないけれど、概ね同じようにして続けば良いなと願うことはできるでしょう。

もしもそのように願うのならそうあるようにしていくだけのこと、その途中ではまた少し考えは変わることもあるので、また対処していくだけのように思います。

望むものの細かくこだわりすぎるのも、何の差異を認めないようなことになるので、何があるかはわからない、それでも何か"良きもの"はあるだろう、そう漠然と思うくらいのことで良いのかもしれません。

だから、極端に言ってしまえば、何にとらわれることもなく、そして、何に従い過ぎることもなく、ひたすらたゆたうようにしているのが最善なのでしょう。

あとは、自分自身がどこに移り行くのか、自分の意志や行動だけでないところで、導かれるままに任せるだけです。

決して自分の考えや主張がないというようなことではなく、お天道さんなのかそれに類するものなのか、何か大きなものに見守られているという感じでしょうか。

仏教的な"諦める"ことが、"物事を明らかにする"ことであるように、そういう静かな心持ちにたどり着けるのなら、その時にわかることも多いのでしょう。

それをひとつの到達や励みとして、今日もまた歩んでいくのです☆