失神について<保存用>

 

6月某日・都内某所、ソバジマ的"三本の矢"のひとつ、「法悦の至り」をどのように推し進めていくのかについて、とある勉強会に参加してきました。

もう少し具体的には、代々木忠監督の作品を通じて、性・セックスにまつわるあれこれを紐解いてみようではないかという趣旨のものです。

自分がどう生きるのか、これは生きる哲学にもつながるものなので、何らかの手がかりを得ていくのは不可欠なことで、個人においてとても重要な取り組み・課題となっています。

こういう考えやとらえ方が、巷間にどれくらい出回っているのかわかりませんが、自分が必要と思えば巡り合えるということは確かに言えるでしょう。

今回の詳細に移る前に、ひとつの前提として「至高体験」についての考察があるので、まずはこちらをご覧ください。

至高体験について<保存用>

自分自身、別段「性の求道者」とか「目合研究家」を掲げているわけでもなく(名乗れるものなら名乗りたい)、今はまだ道半ばといったところです。

知り尽くしていない、わかりきっていない、しかし、少なからず興味のあるだけに、いつもではなくとも、そのいくらかは会話の俎上にしたい思いがあります。

また、そのようにして、よくわからないものだけになんとか知ろうとしていることもあって、宇宙の果てを知りたいようにどうにか究極を得ようとする、どこかしら願いにも似た思いが出てきています。

興味を持つことを契機としてとことん追求するだけに、真理・真髄に近づいたり、触れたりするというのがあるように思います。

しかも、こういうことは特別誰からも指南してもらうようなものでなく、誰もが密接に関わりながらもその実態や全容が掌握しきれていない気がします。

それがどれくらいのものか、多少の程度の差はあるのかもしれませんが、個人ごとに見てみればさほど大きな差はないように思います。

きっと、奥義とか秘密というものは、決して人の目から遠く隠し隔てているものではなくて、あまりに奥深くひっそりとしているものだけに気づきにくい、そういう性質のものではないでしょうか。

そして、知らなくても困ることが少ないのかもしれませんが、"秘して語らず"、"沈黙は金なり"という風潮や流れにいっちょ棹差してみようではないかというのが本分です。

理路・理屈をふまえながら、実際にある・あったことを題材としてみれば(今回では、男のオーガズムや失神)、そこから知り得ることは多いはずです。

時に、一目散に答えを得ようとせず、周りにある手がかりばかりを集めても仕方ないのかもと思うかもしれません。

しかし、そこは多く集めてみないことには何の検証もできないということになりますし、案外周りから知っていくことでしか答えに行き着かないこともあるでしょう。

部分を寄り集めれば全体になるとは限らない、それでも、断片であっても部分にも意味があると言える場合があるように思います。

それだけに、さまざまな切り口やとらえ方でもって、どうにか知ろうというのが慎ましやかなことであり、また、微笑ましいことであれば良いなと思います。

「性」のひとつのとらえ方として、これを字解すると「心が生きる」ことであり、それは「生きるとは何か」という問いにつながっていくように思います(≒哲学)。

これは、手がかりと答えの例に重複するような言い換えになるかもしれませんが、左脳で論理的にとらえることで、直感的な右脳でもやがてとらえることができることに似ているかもしれません。

右脳・左脳の働きは、決して相反するものではなく、相互補完する関係にあるものであって、どちらも伸ばしていくことで、脳全体でもって、より詳細に踏み込めるようにも思います。

知らないことを知る、知るからわかることもあるでしょうし、何を知らないのかを知ることで、できることが増えるのかもしれません。

あるいは、考えながら考えない、感じながら考える、感じるために考えないとか、いくつもの組み合わせでもって詳細に踏み込むのが良い気がします。

不明なものを不明とせず、それを解明しようとする試みは、普段の生活においても何らか可能性を見出そうとする姿勢や心構えにつながるでしょう。

問答を続けるようにして、何かに至ろうとして積極的に歩み続ける限り、失敗ということはあろうはすがないことになります。

今すぐにでなくても、少しずつ試すことが大切で、禅の公案で言うところの「隻手の音声」を耳にするようでありたいものです。

両の手で打てば音は出る、ならば片手で打てばどのような音がするのか、音が出ることを含めていつも考えを巡らせていければナイスです。

ともあれ、頭や言葉で考えることをしていくうちに、どこかで理性と本能みたいな比較もできるでしょうが、その場合では、理性は脳、本能は身体とも言えそうです。

また、魂(タマスィー)に思いを馳せると、これまた根源的な本能として、心と身体の向こうにあるものととらえるのが適しているような気がします。

これも恣意的なもので、一旦魂のことを後に考えると、頭(理性)で考えること、身体(本能)で感じることのように、何をどうあてはめるのが妥当か思いを巡らせてしまいます。

心はどうなるものか、これを感情とすれば、その奥に魂(タマスィー)なのか、概ね分けることもできるけれど、次第にその境目がわからなくなってきます。

そのためにも、このいくつかあるものを、どれも大切としながらも、あえて渾然一体となるようにするのが良いのかもしれません。

部屋の間取りのように、いくつも分かれてはいるけれど、全体で見れば一軒の家であるようなことで、心や身体含めてひとりの人であることに近い気がします。

先の、右脳だ左脳だという切り口も、どちらも脳が考えること主体であるのならば、こと感じることに関しては、心にはかなわないとも言えそうです。

そのそれぞれが完全に切り離されているわけでもなく、互いに重なり合いながらあるものだから、明確に線引きしない、曖昧なままにしておくのもまた良いように思います。

このようにして、実は論理も本能を混ぜ合わせながら、より心に重きを置いていきたいし、それが大きな鍵を握っていることのように浮かび上がってきます。

「あなた、私」においても溶け合うようにしてひとつになる、それは意外と得難いのかもしれないけれど、確かにありえることのひとつです。

物事の道理が、自分から投げかけたものが返ってくるのならば、もっと感情を打ち出すことによって、より気持ちで通じることはひとつ結論めいて言うことができるでしょう。

心も身体も、あるいは魂(タマスィー)も総動員して向き合う、そのためにも情理とか情動とか、そういう言葉を用いながら語れることがあるように思います。

今回のことでは、考えすぎず、それでいて考えないわけでもなく、それとなく考えを及ぼすことによって、この境地に立つことができる、それこそ直感めいた感覚があるものです。

また、目をうっすら開けているのか、それともそれは閉じているのか、そういう狭間において本質が見えることに近いように思います。

これは、意識と無意識とか、覚醒と睡眠とか、多くの事象の狭間を縫うようにして連なるものなのかもしれません。

このあたりは、呼吸を介在させることによって、多くの物事を「架橋」する発想にも至りますが、ここでは割愛する代わりに、こちらをご覧いただければ幸いです(だいぶ長い:5部作)。

至高体験について:仕上げ<保存用>

ひたすら気持ち良いとか激しいとかばかりでなく、性・セックスには感動する領域のものがあるのをご存知でしょうか。

また、「性」のことのみならず、飲み食い、衣服の着飾り方など、自分なりに興味を持ちながら、学ぶ機会も得るのは何のためにか。

きっと自分自身で感動する、気持ちや心といったもので感じるとともに、それを分かち合いたい願望があるのかもしれません。

時に今回では、大切な人としっかり「つながる」ためにも、こういう心身深いところの道理を知るというのが、物事の要諦ではないかと思う次第です。

手探りでも構わない、大切なのは知ろうとすることであって、もしかするとそうなのかもしれないと思い巡らす、そういう感覚で良いのかもしれません。

今回の、都内某所のとある勉強会が、何かしら嚆矢となるように、あるいは、何かしらの嚆矢とするべく、ここからまた日々研鑽を続けていきたいものです。

毎度、性・セックスについては同じようなことばかりを並べ立てている気もしますが、何回も思うことで確信が強まったり、深まったりするのであれば、今はそれで良いのだと思います。

すべては実践のうちにあるようにして、愛は真心、助平は好奇心、そんな気持ちで朗らかに日々歩んでいきたいものです☆