至高体験について<保存用>

 

あー、めくるめくる耽溺に浸りた~い、息もつかせぬ恍惚にまみれた~いと思ったとしても、

会った人にいきなり話を吹っかけるわけにはいかないし、実践においても…(以下同文)。

おっと、まずはお近づきになって、楽しくお話するところからですね。

行き着く先の希望はひとまず申し上げておきますので、どうぞお手柔らかにお願い申し上げます。

それはさておき、三砂ちづるさんの「オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す」(光文社新書/2004年)を、この度読了。

男性には経験し得ない月経、妊娠、出産を通じながら、女性の身体の持つ可能性や女性自身の持つ力強さなどを、今一度考え直してみようというのが主な内容になります。

初版が2004年で、種々の取り巻く状況は多少は変わっているかもしれないものの、何かと効率や結果みたいなところが取り沙汰されることの多い昨今においては、

2018年の今でさえ、人の、生物としての生々しいところはどうも後回しになっていたり、あえて取り上げないで、あくまで個人のこととしてそのまま個人的に解決しなさいとなっていたりする気がします。

この頃は、私がひとりの人間として、女性に向けてお伝えしたいことが常にいくつかあるので、"あなた"は基本的に女性を想定して宛てているわけですが、

男性の場合は、自分のステディな女性とかスウィートに思う女性に伝えたいとなれば、話を受け取るにも受け取りやすいかなと思います。

冒頭のように、あなたと私がどうということとは別に、ひとりひとり、あなた個人としてどうなのかというところと、女性であるとはどういうことなのか、

男女限らずに広く考えてみることも大切ですし、さらには、他の誰かと意見を交わしてみるというのも大切なことのように思います。

少し言葉を選び、少し言いづらいようなことでさえも、「人間」として大切なことはそこに怯むこともせずあるがままに展開していきますが、

どうしても無理っ!と嫌悪を抱かないでいられるように、適切な配慮は随所に施していきたいものです。

たとえば、身体操作や身体技法において、時代や地域によっては、月経の手当てを、下着やナプキンがなくても支障なくできていた/できる人が、日本においてもいた/いるわけですし、

遠いブラジルといった国であったり、ある意味では他の未開の土地であったりしても、その集団特有の知恵や経験があることを知ることが大切かなと思います。

そう言えば、室町時代や江戸時代の女性はどうしていたのかしらと不思議に思うようなものです。

この、同じ日本においても、全員が同じような知恵や知識を有しているわけでもなく、自分の知っていることや知らないことが、そのまま他の誰にもあてはまらないことは想像に難くないところです。

せめて、その提案だけでもできたら良いなと思うので、これを契機と呼びかけているのが少しでも届くようにと、このまましばらく続けていくことにします。

武道・武芸の達人技もスポーツの高難度のプレイなんかもそうですが、自分がその方法を体得し、日頃からできるかどうかは、試しにでもやってみないことにはわからないものですが、

実際にどこかにできている人がいた/いることを見過ごすべきではなく、その事実をしかと認めるところから、何らかの参考にした方が良いのは、ことさら言うまでもないことです。

少しわかりにくい例かもしれませんが、体操の白井健三選手の高難度のパフォーマンスであったり、プロレスのスワンダイブ式のドラゴン・ラナであったり、目を見張るようなことをできる人は確かにいるものです。

フィギュアスケートにおいても、羽生結弦選手の4回転ジャンプが飛べているように、同じ「人間」として訓練の積み重ねでできる可能性が、他の人においてもまったくのゼロでないような発想になります。

再三思うのですが、この「オニババ~」は、女性はもとより、男性も一度は読むに値する一冊だなと思うわけですが、この一冊でもってすべてを網羅できるわけではないので、一読の後に早計な判断や結論に落ち着くのは控えておくようにも申し上げたいものです。

また、本を読む順番というのも結構重要で、いつ出会って、どう読むのか、それまでの読書体験の積み重ねが自分の人生的な歩みとも深く関わっているとも考えられるからです。

自分のこれまで経験したことや日頃考えていること、そして、本を読んだり、話を聞いたりして価値観やモノの見方ができていくし、

そういったものを背景や土台として読み進めていくことで、共感したり、納得したりすることになるのは、おそらく同意してもらえるかと思います。

個人的には、今のこのタイミングだからわかることが多くて、巡り合わせというものの因果をそこはかとなく感じるものです。

簡単に言えば、代々木忠監督の著書「つながる セックスが愛に変わるために」(新潮文庫/2016年)やブログにある言説や、

八木龍平さんの「成功している人は、なぜ神社に行くのか?」(サンマーク出版/2016年)を参照しながら読み進めると、

切り口や語る人は変われど本質はほとんど同じところに行き着くのだなという思いが強まっています。

ここで余談ですが、今は、ひとつに"宇宙を感じる"とも集約される発想を自らに敷いているのですが、

その過程で、黒田有彩さんという宇宙飛行士を目指しながら活動をしている方を知り得たのは、最近の個人的ファインプレーのひとつと申し上げても良いでしょう。

もしもお目にかかることができるのなら、それはまた光栄なことで、そこでどう私は私のことを名乗り、お知らせするのが良い印象となるかを、内心そわそわしながら今のうちより考えておきたいところです。

そして、そもそもなぜ"宇宙を感じる"ことを心がけているかの理由はいくつかあって、そのひとつには次のような背景があります。

直接それがこうであるわけでもないのですが、引用を表しながら何かを感じ取ってもらえたら良いなと思います。

三砂ちづるさんの「オニババ化~」では、医療介入をする病院でのお産でなく、助産院で女性が自分の"からだ"に向き合ってお産を経験すると、その後に記した産婦の方たちの手記では溢れるように文章が出てきているし、そこにはいくつかの共通点があるとのことです。

たとえば、次のようにして、

"「宇宙との一体感を感じた」「自分の境界線がないようだった」「大きな力が働いてそれに動かされているようにゆだねていた」.....など、いわゆる心理学でいう「至高体験」に近いような経験をしています。"(P.101、102)

これが、長年本質的なオーガズムを追求しながら映像作品を撮っている代々木忠監督の「つながる~」にも似た記述があって、その一部を引用すると、

"オーガズム体験を言葉にすれば、

「相手の体が自分の体」(小沢なつみ)

「人間の手と手は合体しないけど、水とジュースは混ざり合うでしょ」(栗原早記)

「男って私、きょうまで私は自分を敵にまわしていた。男の人も女の人も、私なんだ。私だから一体になって当然なんです」(姫ゆり)

これらの言葉は時間も場所も異なるところで発せられたものだが、三人に共通しているのは、自分の体と相手の体の境界線がハッキリしないくらい「溶け合う」感覚を持つという点である"(P.33)

三砂ちづるさんにおいては妊娠・出産において説いているものが、代々木忠監督においては、その前段階である性行為(セックス)において説かれています。

それでも、女性にとって、どこかの段階で"宇宙を感じる"ような体験ができやすいことが考えられるので、そのような至高体験が瞬間的にでも自らにも感じられるよう、粛然として臨みたい気持ちが今は発露しています。

こういう、少したどる経路は異なっていても、同じような体験や表現に行き着くのは興味深く、他の分野や領域においても、言っていることや取り上げていることは異なっていても、

その理路や本質が似通っていることが多いので、それを見出だすためにも、自らの集中力をさらに増すように耳を澄まし、眼光は一層鋭さを帯びるようになるものです。

人間誰しも、個人においては生きて十数年~数十年の年月ではあるものの、連綿と続くようにして存在する人類においては、何百万年とか何千万年とかの気の遠くなるような膨大な長さがあって、

その年月の遺伝的叡智が誰の体内にも組み込まれているのであれば、やや言葉を荒く申し上げるならば「人間、ナメんなよ」とあなたひとりひとりにある底力や可能性を深く信奉したいものです。

また、計量・計測可能なデータばかりに頼るのでなく、目には見えないけれど、自分はこう感じるとか、目には見えない何かはあるだろうとの信憑性を疑わないとか、そういう姿勢や態度が同時に必要であるようにも思います。

見えるものばかりが必ずしも信用・信頼に値するものでなく、どこか「直観」にも似た自分の感覚であったり、

心の声とか内なる声に耳を澄ましたりすることが、かなり妥当であるのも、人間が生物(なまもの)であることの証左なのかもしれません。

具体的には、医学的見地に依る知識や技術も大いに活用しながら、各種医療機関で診察や診断を受けるし、

同時に、自分自身でも内面を見つめるようにして、自分の身体がどのような状態なのかを普段から能動的に知る、

そのどちらも同じように必要なものとして、相互補完的に取り入れるのが良いように思います。

そして、それもまた宇宙の広大無辺なるスケールとか人類の膨大な歴史とか、とてつもなく大きなものの内にあるのだと感じながら推し進めるのではいかがでしょうかと、ここに申し上げる次第です。

なかなか言いたいことの多くはあるものですが、理路を整えるようにして割愛もしながら進めていくことにします。

三砂ちづるさんの「オニババ化~」の途中に、「愛のヨガ」からの引用でも出てくるルドルフ・V・アーバンは、医師として一生セックスについて探求を続けたようで、それは大いに敬意を表し、ぜひとも後塵を拝していきたいものです。

現場における実践においては、しみけんさんや森林原人さんの(まさに)精力的な活動に注目しながら、親しい人とも気軽にこういう話ができることをやっていこうと思います。

民俗学者赤松啓介の研究を知るのも、大いに啓蒙を得るところとなるでしょう。

冒頭にも申し上げましたが、卑猥にもならず、淫靡にもしないようにして、私は「人間」の話をしているのだと、ただ、そのためにはちょっぴりエッチな話にはなるよということはあるでしょう。

この手のエッチな話がそもそも苦手な人もいるので、一定の配慮や気配りは必要ですが、もしも「人間」の根源に関わる話が一切できないのであれば、

それは日頃の生活(ご飯を食べる、トイレに行くなど)の話もしにくいようにも思いますので、一緒に時間を過ごすことはあまりないように思います。

家庭生活において「メシ、風呂、寝る」しか言わないのはやや問題があるとも思いますが、いつも楽しくゴハンを食べることができるような相手とは、エロス的な関係においても、同様に楽しく入浴し、さらには楽しく…(以下自粛)。

自分の大切に思う人、それがパートナーとなるような人であればより一層、自分はこのように思いながら、その思いを伝えたいということを、まさしく伝えていきたいなと思うわけです。

また、機会があるのなら、少なくとも同年代の人たちにはもちろんですが、10代~20代の人たちにもそうですし、どの年代の人たちとも、わりとフランクにこの界隈の話を共有していけたら良いなと思います。

普段より、私は"私はスケベである"と高らかに公言していきたいのですが、はじめよりこう言い募っておくことで、

実際には言っているほどでもないなとか、言っている以上にこいつはスケベだとか、何かしらは判断が下されることを望んでいるわけです。

それでも、このいかなる判断が下されようとも、すべては"スケベ"の範囲でなされるものなので、度合いはさておきスケベな印象を持っていただくことは間違いのないところで、ありがたく思うものです。

なかなか収束しそうで話が広がるのは、私の話すのと同じクセなので恐縮なのですが、

ここで思いついたついでに申し上げておきますと、きっとライトに「いい恋しなよ~」みたいに言う時には、心がときめく≒心臓の鼓動が高まるようなことだけでなく、

身体(からだ)の接触をもって体温が高まるとかホルモンが分泌されるとかのことも含むのかなと思います。

それが一糸まとわず行うような性行為(セックス)だけでなく、唇を重ねる(キス)とか熱い抱擁をする(ハグ)とか、

そうでなくても手をつなぐとか腕を組むとか、相手の存在を"からだ"を直に感じることが良いことのように思います。

ありていに考えて、大っぴらに「いいセックス(性行為)しろよ~」とも言いにくいですので、恋愛と性行為とでは感情と行為との軸足の差異はあっても、一部は重なることを担保に言い替えているのでしょう。

報告する方も、「いいデートだったよ~」と包括して、ややもすれば抽象的にも表すのが礼儀なのかもしれません。

そこんとこどうなのよと率直に知りたい(けど、自分は言わない)ように、そこは人間的修練が必要であるように、私としては思われてなりません。

ここまで、希望を託し込めながら、ひとつ文章を練るようにしていたのですが、それは何のためなのか、

より自分の望むもの、自分の進みたい方に思いを重ねていく方が、とても愉快であるので、そうしたまでのこと、

あるいは、そうして希望を多く表す方が、実際にそうなる捷径という向きもあるので、それを実践している今日この頃なのです。

だいぶ多く(ヴァーチャルでの)紙幅を費やしたので、言いたいことのいくつかはまた追ってお知らせいたします☆