至高体験:仕上げ<保存用>

今回もだいぶ長い道のりを行こうとして、しかし、まずもって行くべき規定のコースからうんと離れるところからはじめていこうと思います。

なぜ最初から脱線をするのか、それはひとつのクセでもあり、同時にひとつのコツでもあるのかなという気がします。

とことん「天の邪鬼」なのがタマにキズとも思わないではありませんが、それはそれで構わないなと思っています。

お届けするこちらの側としては、目を通す人が、たとえ内容やトピックが四方八方に飛び散りながらも、どれくらい見届けてくれるのか、それを見極める意味合いがあります。

それはまた、雲散霧消するようなものでなく、あちらこちらと結びつけることで徐々に浮かび上がってくる、そういうものを期待してほしいという思いもあるものです。

それに付随していけば、私自身は「萌芽」、「馥郁」、「蟠踞」、「陋隘」みたいな言葉を平気で用いていきたいわけですが、たとえ個々の語句や表現の意味するところがわからなくても、それでも何とか内容をわかろうとする人に読んでもらいたい思いがあります。

手を尽くし、工夫を凝らしていくこともしかり、伝えたい思いが強ければ何かは伝わるだろうということに似ています。

自分の中でも、いつも思考や感覚が散り散りになっているので、実際にわかるかどうかは別段問うところではなくて、あくまで姿勢の問題としてどうなのかだけを明らかにしたいわけです。

わからずとも、せめて耳を傾けることはできるので、それをするかどうかはお任せする、それでもしかと聞き届けてもらえたら嬉しく思うものです。

それもあって、殊更に高い壁を築くわけではないけれど、道のど真ん中にフサフサの茂みをもたらして、通りづらいけれど通れるはずだ、これもまた道だというような感覚を持ってもらおうとしています。

また、仕掛けとしては細々といくつもあって、それもまたわかりづらいことになっていますが、最初から難解にとか、大上段に構えて繰り広げてしまっては、それはあまりに不親切だろうという感覚があります。

いささか後づけかもしれませんが、大いに脱線することは、それとはなしに"ほぐし"の意味もあるわけです。

そして、脱線に次ぐ脱線で恐縮ですが、最近この"ほぐし"に関して驚愕の知見を得たわけですが、当然ここで明かせるような話ではないので、ほのめかすままに留めておきます。

それにしても驚きました、言っている言葉は耳に届くのに、頭の中では「どういうこと?」となって、意味や光景を結ぶことができないのですから。

これがあれだとすると、それでそうなるのかっ!?となるほどに、人の想像力(および、人の可能性)は留まることを知らないということはお伝えしておこうと思います。

当然、具体的な内容は明かせるものではないので、ほのめかすままに留めておくわけです。

それはさておき、話を元に戻してみると、読む人に取っても、「何の話なんだ、これは」とどこか思いながらも、思わず首肯してしまうところが多いとか、時間を費やして読むに値する内容のようだとか、それを早めに吟味して見極めてほしいという思いもあります。

これが、もっと視覚的な図像やイメージに頼る人もいて、時に音声や会話なのかもしれませんが、あまり文章を読むのが肌に馴染まないなという人がいても、それはそれで構わないわけです。

たとえば、マヨネーズごはんのような、一見すると合わないような組み合わせでも、食べれば結構おいしいじゃないというようなことを、自分は文章や理屈において提示したいし、それなりに納得してもらえるようなことをモリモリとかなえていきたいなと思っています。

こういう仕掛けや工夫が必ずしも頑迷というわけでなく、あの手この手と尽くしているうちに何かしらは届く、それが微笑ましく思ってもらうのであれば、すでに望外の境地にいたるものです。

そして、自分なりの真ん中について考える時、あー、確かに長きに渡るもの(少なく見積もっても18年かそこら)があるということで、これはまた、後ほど詳述することかもしれません。

だいたい今回の内容にしても、この一年くらいにわたって投稿している向きと変わりはなく、その意味では随分と一貫しているものだなと思います。

語る切り口を変え、異なる例証を挙げるものの、根底にあるメッセージはあまり変わりません。

特に、そういう意図で書いているものが今年の2月のもので、この時点で盛り込んでいる内容が、今に続くようになっています。

だから今回のタイトルが、わかる人にはわかるであろう、伝わる人には伝わるであろう、前のものを受けているカタチになっています。

"終わりがないのが終わり"、つまりはそういうことなのです。

その時々で思ったリアルにもとづいていながらも、先の時間において生きている自分に向けてもいるので、その有効期限と言いますか、行き届くであろう論理の射程は広いだろうということがうかがえます。

少なくともそうであってほしいと思っていますし、人間存在の根底にまで行き着こうとしている内容なので、サラッと流れる一過性のもの・流行で終わるものでもなく、本質的な何かに触れていると良いなと思います。

年来、”より良く生きる"ことを是としていて、それがまた昨年の出来事・出会いによって新たな展開を見せています。

望む何かがあるから、やがて手元に寄ってくるという意味では、至極平仄や辻褄が合っているものだなと、内心で感慨深く思うものです。

その一方で、時間が経てば考えの詳細は変容していきますし、さらなる考察も進んでいくわけです。

それが今回の内容であり、この一年くらいを過ごしながら思って来たことの総決算、つまりは個人的な"ありったけ"となるわけです。

特に最近のことで言えば、自分がどれだけ把握して実践できているかは別として、呼吸が大切なところまではわかってきました。

次なる段階としては、その大切さの実態をとらえることであり、なぜそれが大切なのかを解き明かしていくことだなと思っています。

これがまたどうなるのかは、自分でもわからないところなので、今後突如として表すということもあることでしょう。

"今のところ"という申し開きをしておきつつ、いくらかまとまったものにしようとして展開していこうと思います。

これは、自分の立ち位置にも関わってくるのですが、「架橋」ということを切り口にしてできる話があります。

呼吸がなぜ「架橋」という話につながっていくのか、そのためには呼吸ってどういうこと?というのを、先に少し詳らかにしていきたいと思います。

いつも息を吸って吐いてとやっていて、吸う時は酸素、吐く時には二酸化炭素だといった話はよく耳にするところでしょう。

呼吸自体は、何も考えなくてもしているものですが、一方で意識してもできることで、ある程度は調節できることでもあります。

これが、心臓の鼓動を司る筋肉を、たまには意識して動かすぞーというようなことでは、意識が途切れ、うっかり動かすのを忘れてしまったらかなり大変です。

ノドをつまらしてある刹那呼吸ができなくなるのとは深刻さが大きく異なるので、何はどうあれ動くようになっているものです。

他の器官や機能にしても、どれだけ意識して動かすことができるのか、自分のカラダであるにも関わらず、特に内臓はあまり関与できるところではないものです。

別の例では、カラダの内側で、水道の蛇口をひねるようにして、ちょっと多めに胃酸を出そうかしらとはいかないわけです。

呼吸自体、吸って吐いてとカラダの動きではありますが、深く行えば心を落ち着かせることもできるし、緊張を強いられればどうしても浅くなりがちで、その時はカラダも強張ってしまいます。

ここでは、自分自身の意識によって、心とカラダとつなぐことができると考えることができます。

呼吸を経由することによって、カラダの調節できないところに働きかける、ドアを開け閉めはできないけれどノックくらいはできるような気がします。

また、何を思い、何を考えているのか、思考や感情において意識しているところに働きかけることもできますが、同時に、その大半を占める潜在意識・無意識の領域にまで働きかけることができます。

こういう、目には見えない、しかし、大きな力を持っているところを決しておろそかにしてはいけないものです。

そして、自分自身が"今、ここ"にいる、今まさに生きていることを知るには、呼吸に意識を傾けて行うのが、最も簡単で効果的な方法ではないでしょうか。

普段、このようなことを言う人を見知ることはあまりないので、自分自身においては、せめて小声で囁くようにしても何度でも言っていこうかと思っています。

そういう、あちらとこちら、あれとこれと結びつけて考えていく発想が持てるようになると、どこかで、あなたと私、自分と他者、自分と社会というものを結びつけることもできるのではないかと思うものです。

これが、だいぶ簡略化していますが、呼吸を通じて見えてくる、自分なりの「架橋」につながる発想になります。

たとえば、深呼吸がより深いものであれば、自分自身や周りの物事がより良いことになるのではないでしょうか。

"底知れぬ魅力"とか"奥深さ"について思う時、それは腹の底まで息を吸えているのか、カラダにおける深さでもあるし、意識(~無意識)の深さとの関わりであるかもしれないのです。

気が合う、息が合うということは、呼吸のリズムが同じであるとか、お互いに心地好いと感じているとかの理由がありそうです。

少し大仰にして、"生きている気"を大胆に"いき"と縮めて呼ぶのなら、そういうものは握手とかハグとかの直接的な身体接触において、自分に合うのかどうかをその場で見極められるような気がします。

長い時間をかけるのでは、一緒にいることで気詰まりにならないかどうか、言い換えれば、呼吸が楽に行えているかどうかを測るのも良いでしょう。

長い行列に並んでも何も苦ではなく、むしろそれも楽しめるのか、それをもって判断しても良いかもしれません。

これは、細かく言い出すといささか説明が入り込むのですが、気の感応を考える時に、手の平から行き来するものとする考え方があります。

野球のイチロー選手が、他の選手のグラブやバットを持たないというエピソードは、自分の馴染んでいるものではないという理由もあるでしょうが、他の人の気を引き込みたくないという意味もあるような気がします。

あくまでも、自分で気を高めて集中するということで、集中するための必要と不必要を当然のものとして分けているように思うものです。

この話につなげていくと、欧米、特にアメリカでは、多種多様な人たちで社会が成り立っている向きがあるので、まずは握手やハグをする、これはお互いの距離を縮めるのと同時に、相手の気の感応を測るという意味もあるかもしれません。

日本においては、「言わなくてもわかるでしょ、暗黙の了解ってやつだよ」で済ませがちですが、欧米のこういうところは多少は見習うのが良いなと思います。

さらには、良い呼吸をしていると、一緒にいて心地好いばかりでなく、お互いに引き立て合えるような出会いがあるかもしれません。

自分の気持ちが良ければ、接する人も気持ち良くなるもの、似たもの同士がやがて出会うというのはこういう道理のような気がします。

わざわざ水溜まりに入って濡れることをしないように、一緒にいて楽しい人を選ぶのは、多くの場合に当てはまるのではないでしょうか。

そして、普段では、得難き出会いのために呼吸を意識するとか、呼吸が重要であるなど、あまり多くの人は思わないでしょう。

前段に続き、こういうことを言う人もあまりいないので、呼吸のある側面が貴重であることには、なかなか思い至りづらいものです。

もしもこれがひとつの真理を突いているとしたら、やらないよりかはやった方が良いことになるものです。

呼吸においてもそうですが、姿勢を正すことや、前を向いて歩くことがなぜ大切なのかということにも触れておきたいものです。

私自身は、うつむいている人が運が良いとはどうしても思いにくいものです。

手元に忙しい、眉間にシワ寄せて険しい顔をしている人も同様・・・(cf.歩きスマホ)。

朗らかな人、柔らかな雰囲気の人に惹かれるのが大半であるとして、少しでも良いと思うのであれば、見直すようにしてそうした方が良い気がします。

姿勢が良くないのであれば、呼吸もまた浅くなるので、これが普段の生活における運気に関わるとすれば云々、そういう発想のできる人が多いことを望みます。

また、呼吸の浅い人は、本人には自覚はないでしょうが、案外上っ面の状態でいるのかもしれません。

深い意識にまで浸ることがないために、浅薄な発想や発言を繰り返すことだってあるように思います。

極端な例では、カラダの健康状態には何の問題がないけれど、深呼吸ができない人もいるようで、まさかそういう人もいるのかとにわかには信じられないものです。

こういう人に対してもそうですが、特に呼吸の早い/遅い、強い/弱いを組み合わせていくと、心理的ストレスや、過去のトラウマも緩和・寛解するようなことがあるそうです。

これを何と言うのかは定かではないものの、呼吸すること自体を上手にできることの効果・効用が何かしらあるでしょう。

一度の時間の長さしかり、日をまたいでの回数しかり、一回やそこらやったから済むのでなく、普段の生活において続けていくことが良いように思います。

あるいは、運動やスポーツをして息を上げる、汗をかくこともそうですが、もっと呼吸を意識してみると良いでしょう。

たとえば、女性に多い"冷え性"ですが、これを体質の問題として終わらせるのではなく、カラダを動かしているかどうか、呼吸を意識しているかとも関係があるかもしれません。

指先にまで十分な血流があるのかどうか、自分で改善しようと思えばある程度はできることでしょう。

ホットヨガやフィットネスで女性の姿が多くあるのは、ひとつの流行ということもあるでしょうが、もっと本質的な何かに気づいている人たちが取り組んでいるとも考えられるものです。

ここでは、前向きに生きることや、快活な気持ちであることに、カラダを動かすことが大切だと言える気がします。

もう少し後で述べますが、セックスにおいては何もまとわない姿で、心もカラダも開け放つもの。

"明け渡し"がひとつの極意でもあるので、普段から汗をかく、血の流れを意識するのはとても大切なことになります。

気の流れにおいても同様に、肌が合うのが気が合うことにも結びついていくわけです。

つまり、より良く生きることとセックスが密接に関わっているとすれば、これにいくらか注意を払ってみるのが良さそうです。

あるいは、お化粧やファッションも大切ですが、一過性のものでないことも取り入れてみるのが、恋愛や結婚においてもうんと役に立つような気がします。

ステキな男性と出会いたい女性はもちろん、男性においてもステキな女性と出会えるようになるのが良いですね。

もちろん、いろいろな好みはあってしかるべし、同性・異性問わずステキな人に多く出会っていきたいものです。

呼吸について述べてきたことを今一度見渡してみますが、意識と無意識、心とカラダ、自分自身と"今、ここ"、自分の中の過去と現在、そして未来、あの世とこの世、さらには、目に見えるものと見えないもの、感覚や想像と、理想と現実をつなぐものとして呼吸の働きがあるかもしれません。

そうして、呼吸における効用・効果を考えていくうちに、行き着くところがあると言えるでしょう。

これはまた、"逆もまたしかり(vice versa)"ということで、自分の目指すところを考えていくうちに、呼吸に行き着いたということもあります。

そうして、磁石がお互いに引き合うようにして、ここで重ねて考えてみようということになっています。

もしも「生きる」ことが「息をする→息る(いきる)」ことと同義、あるいは同じくらいに大切だとするならば、呼吸を大切するのは必至ということになります。

音声が同じということは、似たような意味合いを持つ可能性があるということで、「石」と「意志」がともに「固い」という形容もできることから、その一端をうかがい知ることができるものです。

このあたりは、言語学的な発想とアプローチによるものなので、『息覚 呼吸から《我が唯一の望み》へ』(浜田貫太郎・小椋孝子、幻冬舎ルネッサンス新書)を参照していただきつつ、自分なりの考察をより進めてもらえると良いものです。

このように、呼吸をひとつの媒体として「架橋」について言及していくと、普段の生活や取り組みにおいて、自分とつなぐ、相手とつなぐ、そういう"間(あいだ)"にいたい思いがあります。

禅や瞑想の発想なども随時取り入れながら、あるいは、このあたりに言及しながら、セックスの話を持ち込んでくると、結構深く話し込めるものです。

これは以前にもどこかで述べましたが、"ヤッた、ヤラないに終始しない、それは人間の話である"のですが、なかなか話を切り出せないものです。

もっと気楽に言っても良いけれど、それでは伝えたいことの真ん中にたどり着く前に、他の話に移ってしまいそうで、かえって中途半端なことになってしましそうです。

そういう内容が、今年の2月に書いたものの前後にあって、ある意味では土台であり、背景でもあるということになります。

何より、より良く生きることにセックスがあろうとは、私自身思いもしなかったものです。

もう少しエロスと言いますか、(主に)男女の秘め事の類でもあると思っていたのもあるのでしょう。

それに、今まで自分の知る限り、周りの人でこういうことを言う人にも出会ったことがありません。

ともあれ、セックスを突き詰めれば、生命の根元に触れる行為でもあるので、自分の深いところに関わるというのは納得のいくところです。

または、性に向き合うことは、自分と向き合う、相手と向き合う、生命と向き合うことでもあるなと思います。

エロスの興味・関心として、人数の多さや、ひとりの人との数の多さもあるかもしれませんが、どれだけ深いところでつながれたかどうか、ひとつにはそういう観点の方に重きを置きたいものです。

「性」は"心が生きる"という文字の成り立ちなので、精神的なところも大いにあるはずで、必ずしも体位の豊富さや突く・突かれる激しさばかりではないのです。

あるいは、行為そのものをすれば新たな生命も宿るでしょうが、つながる深さによって、パートナー同士、親と子の関係が良くなったりそうでなかったりすることもあります。

この部分の最後として、呼吸に関してさらりと言っておきたいひとつは、漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の初期の方では、呼吸を練ってエネルギーとする"波紋"がありました。

この理屈はひとつ独特のものではありましたが、リサリサが驚異的な若々しさを保っているように、呼吸が何か大きな効果をもたらすものということでは的を射ており、異なる角度から呼吸の大切さをうかがい知ることができるものだなと思います。

荒木飛呂彦先生の若々しさもまた、相当に驚異的なものであることにさらりと触れつつ、次に進んでいこうと思います。

繰り返し繰り返し、手を変え品を変えながら言っていって、重複する色濃いところが自分の主張の大半であって、漆を何度も塗って仕上げていくような感覚があります。

あるいは、山道を大きく回っていくうちに高度を増し、次第に頂上を目指していく感覚とも言えそうです。

そうやって、今が全体のどれくらいのところにいるのかはわかりませんが(だいぶ長い)、多くの人が言わないであろうこと、少なくとも自分自身の管見の及ぶ限り見聞きしないであろうことをより積極的に選択していきたいと思います。

また、表面をなぞるだけでなく、薄皮を丹念に向いていくように、真髄にまで触れるようにしてやっていこうと思うことには変わりがありません。

どこから手をつけたものか、目の前に放り出しているような有様で、きっとだいぶ散らかっていることになりますが、言いたいことのいくつかはあるので、それを並べるようにして、それで通底する何かを感じ取ってもらえれば良いなという気がします。

"終わりがないのが終わり"であっても、どこかで目処をつけるようにしたいもの、それでもまだまだ続きます。

ここからまた異なる角度でお届けしようと思いながら、そのはじまり方はいささか唐突なもの。

それについて、いくらか展開していきたいと思います。

自分と向き合い、自分のことを大切にすることにつながる発想で、どんなに小さいなことでも、自分で「やる」と言ったことができない場合、自分自身が思っている以上に自尊心を傷つけていきます。

これは、自分自身のことで自信があるかどうかにも関わるし、無意識のところでも関わりがあるように思うものです。

うんと深い自分の真ん中のところ、どのような局面にあっても最終的なところで自分を信じることができるのかどうか、生きる瀬戸際や根源まで行っても果たして戻ってこれのるかということになります。

もしもそこで越えてしまうようなことがあれば、命途切れるようなことになって、あちら側に渡ってしまうことになります。

または、心もカラダも裸になるようなセックスの場面で、自分に自信がないのは如実に表れてしまうもので、何だかぎこちないことになるかもしれません。

知らないところで自分が傷ついている、それを自分で気がつくことがないというのが、あるいは悲劇なのかもしれないと思うものです。

これは、結構ないがしろにできることでなく、生きやすさとか運気とか幸せとか、そういう目に見えないけれど重大なことに関わるものだと見て取ることができるように思います。

単純に言えば、できないならできないと言うとか、安請け合いせずにやらないと言うとか、その方がよほど誠実と言えるものです。

自分の中で、自分自身と握手やハグができているかどうか、根底のところでしっかり結びついていることが大切です。

そして、少なくとも自分とした約束に関しては、コトの大小はあれどもしっかり守って、果たしていくことが良いと言えます。

今の段階で、自分のやりたいことや目指していることは、何かを手に入れることでもなく、特定の誰かと出会うためだけのものでもありません。

発想のひとつとしては、自分のプラットフォームを築くことが最初に挙げられます。

それがまた具体的なところではないために、見かけと内実がどう折り合いを持つものなのか、それをを知るべきだというのが今の段階になります。

自分にとっての"プラットホーム"、それは単に"ホーム"となり得るものかもしれないし、これを別に言い換えるとするならば何と心得るのだろうという思いがあります。

ひとつの理想としては、アンディ・ウォーホルの"ファクトリー"として、身近にあるようでありたいというのはあります。

理屈としては、もう少しわかりにくくなってしまうのですが、こうも説明ができます。

たとえば、理想の先駆けとして既にそこがあるのなら、自分は十分に関わりたいと思っています。

大きく理想を掲げるのはもちろん大切なことですが、今の手前で、理想の実現がいくらかでもなされているのか、そこを見極めたいし、見定めたい思いがあります。

大層なことを言っていても実践が伴わなければ意味がない、どれくらいがなされているかより、どれくらいなそうとしているかに重きを置きたい感覚です。

そのためには、自分自身が居心地の良いところにせっせと赴いていきますし、自分のいるところが居心地の良いようになるようにするだけです。

そんな、居心地の良いところが自分にとっての"居場所"となるような気がします。

多くの人が立ち寄るように、自分自身がそうなることとともに、自分のいる場所が他の人にとってもそうであれば幸いです。

そのためには、自分の足元を見て鑑みる、それは「跂者不立、跨者不行」とならないように戒めるだけのことです。

稲盛和夫さんの本やインタビューを読んでいて、仕事(売り上げ、成果)を通じて人格を磨くということがあります。

必ずしも技術や小手先の知識でなくて、もっと人としての関わり方があるし、それがあるから仕事が円滑に回るわけです。

これも、あるには越したことがないわけですが多くのお金を得るだけでなく、何をか得るのかということをじっくりと考えてみたいものです。

何をするにしても、人と人との関係で成り立つものなので、「人間」をどれだけ知っているのか、それがコトの捷径だなと思います。

それがまた、自分というものの成り立ちを知る手立てともなるので、得手不得手やいくつもの特徴を知ることになるでしょう。

内面の充実もそうですし、その人がどういう人であるかは身長や体重、髪の長さとも直接関係のないところなので、コンプレックスで悩むことはなくなるだろうと思います。

理屈や数値だけでは読み解けないものがあるし、それをおろそかにしてまで、何をか選ぼうというのか、そんな気がします。

自分の思う正しさが、多くの場合の正しさと重なるようにしていけば、より良くなっていくことでしょう。

もしも自分の意見が通るから正しいのだとなってしまえば、通す正しさが次第に歪曲したり、かけ離れたりすることもあるかもしれません。

こういうあれこれを"ファクトリー"構想とからめて言えば、率直なところでは自分に関わる人を"総じて"幸せにしたいものです。

誰かの笑顔や喜ぶ様子を見ることができるのならば、それが自分にとっても喜びであるし、十分に嬉しい報酬になります。

そのためにも、私と出会って関わるからには、こちらのできる限りのことはしていきたいものです。

常に発展途上の身として、一体何を差し出せるのかということはありますが、基本的な心構え・姿勢として、そこでの私は偉大な自分であれ!と言い聞かせながら関わっていきたいものです。

尊大な意識はないままに、最初はできることから、たとえ微々たるものでもそうやって積み重ねていくうちに、徐々にではありますが、喜ばれる存在となっていくのでしょう。

相手の満足が私の喜びであり、あるいは与えること自体喜びと思えるか、何を知っているのかでなく、何を知って行うのか、そういう発想につながっていくのでしょう。

それに加え、気分がいつも良いかどうか、関わる人やいる場所、目の前で取り組んでいることのいちいちにそれを感じることができるのか、それはとても大切なことのように思います。

それはまた、自分がしかるべき人と出会って、しかるべき場所にいるのか、自分のお役目や使命とも関わってくる感覚でもあります。

ジグソーパズルのピースがしっかりあてはまるように、まさに"自ずと"収まるべきところに収まっていくような気がします。

さらには、自分の知性(知識・経験を含む)は、身近な人たち、親しい人たちのために使うもの、決して自分の私利私欲のために用いてはいけないものです。

"夢より素敵な"素晴らしいところへ、自分も行きたいし、そこに多くの人とともに行きたいものです。

何より、自分に親しく関わることになるのは、まことにありがたい限りなので、それは果たしていきたい約束でもあります。

多くの観点や考えを持つようになりながら、大きくいろいろなことを過不足なく伝えるためには、思考や理屈の深淵をのぞきこむようでなければいけない気がします。

そこは、また"淡い"の部分でもあって、正気と狂気の狭間、虚実皮膜、そういうところに行って帰ってこれるように、だから自分自身の思考や理屈を強靭にしていきたいなと思っています。

誰もがそれをする必要がなくて、それは誰かが担うものであれば良いわけです。

次第に混迷を極めるような展開を迎えながら、それでも突き進む様子は、どのように例えることができるでしょう。

ある特定の言葉や単語で済ませることなく、また、直接そういう内容に言及することなく、浮き上がる図像やイメージがそれに近づくように、あくまで点描のように字句を重ねながら、続きをうながしていきたいと思います。

普段誰と一緒にいるのか、あるいは、どんな人と出会うかによって、自分自身の生活や身の回りも変わってくるものです。

いつも励まし合って"高み"を目指すのか、山の麓でのんびり過ごすのか、これはまた自分がどうしたいかとも関わりつつも、誰とどう出会うかの問題でもあります。

自分がそうだから出会うのか、誰かとの出会いによってそうなるのか、どちらが先とも後とも言えないでしょうが、大きく見てみれば自分の望むように出会っているように思うものです。

最近はまた、なかなかヴェールを明かすようで明かさない"SOUL BROTHER NO.1"や得難きステキな友人たちに大いに触発されて、そういう意味では、私は私なりの「己の道」を見出だしていくべきだなと思っています。

それはまた、肩に力を入れて、歯を食いしばるようなことでもなくて、持ちつ持たれつ自分のやることをやり続けていくことで開けて

くるもののように思います。

必ずしも気張ったら良いというわけではなく、長い道のりを歩み続けるようなことで見えてくることかもしれません。

「あなたの差し出す眼差しは誰かのために、また、あなたの差し出す言葉は誰かのために。

すべては"贈り物(ギフト)"であり、自分への"贈り物(ギフト)"でもある。

そして、それは誰かのためであると同時に、あなた自身への"贈り物(ギフト)"でもあるのでしょう。

そういうことに気がつけるのか、天からの"授かりもの(ギフト)"を大切にしていきたい。」

少し洒落て言ってみれば、こういうことになります。

とかく発想は浮かんでは消えていくようなものなので、いくつかを組み合わせてみるとか、時期によって何を採るのかの違いはあるでしょう。

そして、どのような時にでも大切にしていきたいのは、①"愉快に生きる"と決める、②笑顔を絶やさない、③"ありがとう"を言うことで、これらでもって楽しい気持ちを増幅するのが良いでしょう。

お金の使い方にしてもそうで、今回は細かくは言いませんが、お金の喜ぶお金の使い方を意識してみるのが良いでしょう。

人もお金も、情報や物事は巡るものなので、いかにグルグルと巡らせていくのか、そういう視点を持ってみると良いと思います。

また、何かを決断する時、ある程度予測が立つ方と、てんで予測ができない方を選ぶとすれば、最近は後者の方を選ぶようでありたいと思っています。

それは"刺激"に関わるような話にもなって、何となくうす曇りの日が続くより、カンカン照りの晴れの日とどしゃ降りの雨の日が交互にくるような、そんな日々を過ごしたいと思っている現れなのかもしれません。

たとえどんな状況になろうとも、どんなことが起ころうとも、何回か続いていくうちにパターンが見え隠れしてくるし、自分はそれでも足元不如意とならないように、わりと堅実な歩みを続けるだろうということが、性格や感覚において見通せるものです。

これは、モテるからステキな人なのか、ステキだからモテるのかというような、"どちらが先か"問題に関わる話になります。

ギターが好きだから何時間ものプレイが苦にならないように、苦にならないから何時間でもギターをプレイできるということもあります。

あるいは、何かに懸命に打ち込むからコツがわかるのか、コツが多少なりともわかっているから懸命に打ち込むのか、コトの仔細はそれぞれにあることでしょう。

こういう発想を下敷きにしていくと、自分自身の振る舞い方と他者との関わり方との相関を覗き込むことができる気がします。

おそらく、誰もが好かれたい、褒められたいという気持ちはあるでしょう。

幼少期~では両親や親戚から言われていれば良いけれど、それがない、そして、大人になっても特にそういう機会がなければ、なかなか寂しいのではないでしょうか。

その後も、友人・知人・恋人など、大切な誰かから言われたいし、思われたい、そう思うのも良いけれど、もっとも手っ取り早いのは、自分自身で自分を好くとか、褒めるとかすれば良いわけです。

"セルフ応援システム"と呼ぶものなのかは、また別の機会に取り上げてみたいものですが、自分のことを抱きしめるというのは、これは思いのほか良い影響があるように思います。

そこから付随していくと、何かしらの習慣、より良い習慣を持って、それを続けることが大切になってきます。

はじめるも続けるもできない人が多い中、こういう試みだけで、自分自身において、結構自信がつくように思います。

強く思うのも大切ですが、行動から気持ちに作用させていく試みもあって良いかと思います。

自分を褒める、自分を抱きしめる、今日の今からできることになります。

深く考えるのが好きで、抽象的思弁に傾く、これはなかなか良いところを突いているのではなかろうかということもままあるものです。

それでも、もっと具体的にするとか、もっと行動として取り組みやすいようなこと、そういうことを言う必要はあるのかもしれないと思うこともあります。

これも、それほどまでに難しい・わかりにくいのかとも思いますが、ひとつ例を挙げて述べてみたいです。

たとえば、サッカーの日本代表の試合を見て熱狂する人がいて、かたや、イングランド代表の試合を見ることを楽しんでいる人がいる。

応援するチームは異なろうとも、サッカーの試合を見ると楽しいよねということは相通じているものです。

これが、普段のリーグ戦なのか、ワールドカップの試合の場合もあるかもしれないし、ラグビーや野球のように、種目が変わってもスタジアムで見るのって楽しいよねとか、ボールゲームって面白いよねっということでは・・・(以下同文)。

人によってはボクシングや水泳、ゴルフなど他の種目になるかもしれないし、もっと移り変わって映画鑑賞や読書になるのかもしれません。

このあたりまでになると、何か好きなものがあって取り組むのって良いよねくらいの枠組みになるでしょう。

抽象的な度合いが増しているというのが、まさしく抽象的思弁なのであって、具体的なところから少しずつ推移していくものです。

こういうところをあえて言わずとも、想像を張り巡らして会話ができる人がいて、それも決して懸念して先読みをするようなことでなく、ごく自然にふるまえる、そういう人とは次第に仲良くなっていくものです。

だいたい言いたいことの大半が出てきたところで次が最後のひとまとまり、登山でいうところのようやくの8合目、登り切って万歳三唱といきましょう(人によってはガッツポーズ)。

これは今の実感でもあるし、今後しばらくの方針でもあること。

今を生きる、それがゆえに先行きのことももちろん考えるけれども、今を充実しないでそれがかなうというのか。

遠くを見渡すのも大切ですが、今の足元で起こっている歩の進め方を知るのも大切です。

とことん今の、目の前のことに集中するから、次の扉が開く、人生とはとかくそういうものかもしれません。

そういう意味では、新たな旅をはじめることも必要で、riceの「朗読」にあるように、今は持ち得ているものはほとんどないかもしれないけれど、それでも今あるものを手に携えていくことで良いのだなと思います。

生きていれば同じ歳の華月くん、今年の秋で19回忌を迎えたともなれば、いつをはじまりをするのかもあるでしょうが、思えば遠くへ来たものだなと思うものです。

人それぞれに思いの強さはあるし、人それぞれひとつの命を生きている。

人ひとりの命といえど、決して軽んずることなく、決して崇めるようなことでもなく、事実どうであるかというのはあるでしょう。

特に、自分の20歳~今に至るまでこの感覚を手放すということは、半ば自分を捨てるようなことにもなるもので、なかなか相容れないところはあるかもしれません。

宿命とか重い業を背負うようなことでなくて、自分のひとつの特徴なのだなということを感じます。

https://youtu.be/RSvW4S5OufM?t=470

ここからは、どうにかこうにか今回の話を収束するように、チラホラとあることをひとところに集めて、自分のやりたいこと、立ち位置として、どう表したものかと思案している部分があります。

ひとつには、"トリックスター"ということで言えることは多いだろうと思います。

トリックスター"は、神話や民間伝承において、一旦は混沌をもたらすかもしれないけれど、新しい秩序をもたらす者として描かれる存在です。

ある意味では、二項対立する間に立つ者で、「架橋」の発想からも述べることができるでしょう。

楽器でいうところのベースの立ち位置で、リズムのドラムと、メロディーのボーカル、ギター、キーボードなどの橋渡し、これも同じような発想や感覚になります。

身近なところに置き換えると、コンシェルジュ、バーのマスター、居酒屋の店主など、あちらとこちら、誰かと誰かをつなぐ役割を果たすことができるでしょう。

自分の中でも、過去と未来の橋渡しをすることにおいて、「架橋」するのが自分自身のお役目だろうと、今はかなり強く意識していきます。

これらをまとめて、「プロジェクト在原業平」ともなるわけですが、これは今回は特に広げはしないでおきます。

あるいは、これをもう少しわかりやすくするには、映画「天使にラブソングを・・・」の"1&2"が参考になります。

ウーピー・ゴールドバーグ扮する主人公のドロレスは、教会とも教会のある地域ともゆかりのなく、これが続編ではそれが学校であり、学生であるのですが、それも特に関連があるわけではない。

確かにひとりの"よそ者"であるかもしれないけれど、それでも必要とされるがまま"歌"を通して、教会や学園を立て直し、盛り立てもして、多くの人を良い方に導いています。

楽しい気分の時には物事が上手く進むという示唆においても有用な作品になるのですが、全然関係のないところから来た者によって、少し騒ぎを起こすかもしれない、しかし、それがあってそこにいる人たちが良い方向に向かっているわけです。

こういう、間を取り持つような人がいて、あちらとこちらを忙しなく行き来することによって、水と油も一体となるようなことになっています。

これが冒頭にもある、マヨネーズごはんのマヨネーズにも相通ずる発想かなと思います。

不思議なもので、その土地に住む者や前からそこにいる人たちだけではできないことで、ある意味"よそ者"をもって成り立つものです。

実際もそうですが、落語の題材(cf.「厩火事」)にもあるように、男女交際や婚姻における"仲人"もその役割を担っているとも言えるでしょう。

とかくそういう"よそ者"は、どこからともなくやって来て、どこへとも知れず立ち去って行く者、ある意味では、通り過ぎる存在とも言うことができます。

これが、自分のこととして考えてみると、あちらこちらと放浪の旅を続けていくことによって、方々に留まる人たちに良いものを差し出せることになります。

一説には、「移動の距離の多い人は、活躍の度合いも高い」という法則があるらしいので、どれだけ動き回るのかということも念頭に置いておくと良いかもしれません。

私自身の場合、単に「流浪+浪人」の"るろうに"のみにあらす、そこに"メタル"をつけて"めたるろうに"であろうというのは、ひとつの戯れ言でもあります。

活躍の度合いとお呼びがかかることの兼ね合いで言うと、このようにも言うことができるでしょう。

特定の場所や地域だけでなく、日本全国、世界各国を股にかけるということは、多くの人に必要とされているということでもあるので、それが信用なのか人気なのかで測れることのように思います。

こういうことを先に望むことはありませんが、あちらとこちらのどちらか一方ということではなく、"あるいは・・・"のalternativeをいつも提供していきたいものです。

今回にしても広がりと深みを意識しながら、どこか引き際が早いというのはそういう現れだと思います。

あれこれ述べてはいるものの、あまり追及して明言していないのは、自分はこう思う、こういう考えはいかがですかと散りばめていることになります。

あーだこーだと好き放題言っているところもあるでしょうが、それでも意図をすくい取ってくれる人はいるはずですし、受け取らない人は目を通すことすらしないから、ある意味では安心してできるところもあります。

いずれにしても、時間の流れにあるように、多くの物事は次第に流れていくのでしょう、これが今のところの"ありったけ"ということになる気がします。

いつも思うのですが、"ありったけ"に臨み、その都度思いを全部出してみると、それがまた次への布石となっていることがあります。

呼吸の、息を吐ききってみることによって、新たな息がすぐさま入り込んでくるもので、「ひとつの終わりが、ひとつのはじまり」となってくるものです。

次の新たな扉がどこにあって、どう開くのかはわからないけれど、そこには自分の出会うべきものがあるということでしょう。

自分の、個人においては、引き続き「たずきの道」、「法悦の至り」、「本を出す」ことを三本の矢と携えていきたいと思います。

今年もまたいくらか日を残しつつも、ひとつのお役目・使命が終わるようなところもあって、新たな何かを待ち望む、そういう心躍る感覚が芽生えるものであるよう、一旦は今回を締めくくりたいと思います☆