場への敬意<保存用>

 

時々は思うことのいくらかをまとめるようにして、それをもって現況をお伝えできたら良いなと思います。

何を伝えるわけではないけれど、何かが伝われば良い、それくらいの構えですので、何を気負うこともないわけです。

練習や試合の前後に、隅々まで丁寧に道場やリングの雑巾がけをするのは、そういう決まりになっているからとか、出た汗水を拭き取るということだけではなく、それ以外の理由もあるように思います。

それは「敬意を払う」という言い方が適切かと思いますが、"より充実した練習になりますように"とか、"より強く、より上手くなれますように"とか、そういう願いや祈りにも似た思いを込める意味合いもまたあるはずです。

また、場所に限らず、野球選手が自分のグラブやバットを丁寧に扱うように、料理人が包丁やまな板を大切にするように、これはきっと道具においても同じようなことが言えるでしょう。

雑巾がけそれ自体、あるいは、道具を大切にすること自体が、直接筋力が増強するとか、高度な技術が身につくわけではありませんが、だからといってそれがおろそかにしても構わない理由にはなり得ないものです。

何となくの雰囲気、そういう目には見えないけれど感じるものや察するものは現にあって、確かに感覚的かもしれないけれど、絶えず頭の片隅で気にしておくと良いなと思います。

たとえば、今は相当に微細なところまで見える顕微鏡にしても、最初は少し拡大するくらいの、しかもピントも合いにくいものだったことでしょう。

それが、より詳密に見えるにしたがって、より見える何かがあるはずだ、そう"強く"思っているから、細胞の成り立ちやらウイルスやら、今までは見えなかったものが順を追うようにしてわかるようになってきているわけです。

そこには、いろいろ工夫を重ねながら、経る結果として見えるかどうかの明らかな差異はあるかもしれません。

それでも、(今は)見えないものをどうにかして見たいと思う、そのような思いは必ずしも言葉にしきれないし、ものさしをあててピシッと数値で測れるようなものではありません。

ただ、容易に表せない、もどかしいがゆえに醸し出るような説得力が、静かでありながらも力強く潜んでいるように思います。

物事の事実とか、本当の様子というものは開けっぴろげにあるばかりではなく、随分と気づきにくいもの。

少なくともそう思うことが「敬意を払う」ことであり、神棚に手を合わせるとか、出入口に塩を盛るとかするように、多少信心深いくらいでちょうど良いのかもしれません。

デパートやスーパーマーケットなどのわりも大きい店舗で、バックヤードと売り場の境目でお店のスタッフが"おじぎ"をするのを見かけることがあります。

これも、マニュアルに書いてあるからとか、通常やることになっているからと思うばかりではいけないもののように思います。

最近はより一層、インターネットを利用しての通信販売が発達していますし、店舗においても自ら会計をするレジシステム(いわゆる「無人レジ」)が広く浸透してきています。

何かを手に入れる購買の行動に関しては、金銭と引き換えに何かしらを交換したり持ち帰ったりするもので、そこでいかに多くの満足を得てもらうのか、それが重要になってきます。

人がいて店舗がある、それだけでコトが上手に進むわけでもなく、いかにお客さまに喜んでもらえるのか、そういう気持ちを念頭に置いて店舗に立つことが必要であるように思います。

それを言葉にして言うこともするし、普段から行動でも表すことで、自分の中に深く浸透するのであって、そのひとつの発露として前述の"おじぎ"になっていくように思います。

そうやって、自分自身がその場に対して敬意を払う、それがやがて伝わってお客さまの高い期待や満足につながっていくような気がします。

自らお金を払うというのは案外シビアなもので、よほど価値があるとかよほど必要と思わない限り、簡単には財布の紐は緩まないものです。

水道の蛇口を開きっぱなしにすることがないように、どうしても開け閉めには慎重になるものです。

そのひとつとして、場に対する期待が高まっていないと、進んでお金を払う気持ちにもならないものです。

だから"夢の国"のような遊園地ではいかに楽しい気持ちになってもらえるような、いくつもの工夫が施されているのだと思います。

お客さまの立場にしても、実際に払う金額以上に楽しいことになると思うから、嬉々として耳付きカチューシャを手に入れたり、ポップコーンを食したりするのでしょう。

仕事の向きはそれぞれにありますが、"楽しい"要素の強い遊園地や音楽のコンサートなど、エンターテインメントの全般には学ぶことは多いように思います。

自分でもお客さまの立場になって、いろいろ足を運んで見るのでも良いし、各種サービスを受けてみると気づくことは多いなと思います。

時に、親しみやすいとか、一緒にいると安心するというような人がいます。

あなた自身、崇め奉られる必要はないけれど、そっと敬意を寄せてもらえるような存在になってみても良いのではないでしょうか。

それと合わせて、礼儀というのも、今はおろそかになっている気がしますが、実際のところはいかがなものでしょう。

あるいは、『ワンピース』のゴール・D・ロジャーのように万物の声を聞くことができる人がいます。

たとえ、自分自身がそれがかなわないとしても、それができる人がどこかにはいると知るだけでも十分に価値はあると思います。

見るのではなく観る、聞くのではなく聴くようにして、目を凝らしたり、耳を傾ける。

そうやって力を注げば、意識の濃さなのかわかりませんが、立ち上ぼる何かを感じ取るかもしれません。

いろいろ考えながら、いろいろ思いながら、自分の職場や学舎、自分の今いる場所の大切さを、改めて考えてみるのが良いかもしれません。

きっと「私は、私のいる場所を大切にする」、それがはじまりであり、同時に全てなのかもしれません。

最後にたどり着くのも、きっと同じようなところ、それは見聞してもそうですし、今の思う直感として正しいように思います。

今のいる場所、今のできること、それを積み重ねることでどういう景色が見えていくのか、それはあくまで自分次第なのでしょう。

改めて取り上げるまでもなく、今回は特定の何かを表すというよりかは、単なるひとつの呼びかけであって、行間に何を読むかは目を通すそれぞれにお任せします。

あるいは、想像力を駆使するまでもなく、たくましく類推するようであれば、ひとつ貫くものを見出すのかもしれません。

いきなり答えがあるようなことでなく、手がかりや気づくきっかけがいくらかあるだけで、それをどう扱うかによって、答えに近づきもすれば遠ざかりもするだけのことです。

物事は相対的なものであって、自分の立ち居振る舞いがどういう影響を及ぼすのか、それもまた興味深いことのひとつです☆