恋は革命よ!<保存用>

先日の「恋は革命よ!」にちなんで、今年(~来年あたり)の目標のひとつが「法悦の至り」だったことを思い出しました。

自分で言っておいて、迂闊にも忘れそうになるとは何という体たらく。

これですっかり忘れてしまえば、どこにも目を当てられぬーというわけです。

そもそも今は夏の終わりの秋の入り口、"ひと夏のアヴァンチュール"と洒落込みたいのであれば、春のあたりからじっくり備え

ておかないと間に合わないこと必至です。

そうなると次の盛り上がりは年末か、これはこれで別件で気になる"ありったけ"があるから、またしても見逃してしまうことになりそうです。

だから、あえて意識できるようにと連呼していきたいわけですが、結局は興味の有無のようなところで、実際がどうなるかにつながってくるだけのようにも思います。

そうして、自分の内側をライトで照らすように探ってみても、自分自身の優先事項としてはそれほど高くはないので、何がどうなろうとも、そこで喜ぶとか憂うとかの何かしらを思うということもないのです。

ただ、ひとつの切り口として"大切な人と過ごす"ことを思えば、なるほどそれなりに辻褄は合っているのだなと密かに得心し、ウンウン首肯する次第です。

また今回も思いつくままを並べては、どこに行くのかわからないけれど、可能な限りの遠さ・深さまでたどり着きたいものです。

どれくらいの(もちろんヴァーチャルな)紙幅を費やすことになるのか、それによっても自ずと行ける先は変わってくることでしょう。

論理の射程の広さと深さにおいて、今いる場所からどれだけ離れられるのか、それが成長や変化の余地であるし、新たな自分との出会いの機会かもしれないからです。

今の足元から1mや10mくらい移るのでは見える景色はほとんど変わりませんが、10kmとか100kmとか越えてくると随分と変わってくるように、ある程度あーだこーだとやらないと行けない領域があるものです。

そのためには、入念な準備体操にはじまり、適度に負荷のかかるウォーミング・アップをこなしつつ、そして、徐々にペースを上げながらせっせと汗水垂らして取り組んでいくわけです。

それが、見えるカタチとしてはどうしても(もちろんヴァーチャルな)紙幅を随分多く費やすことになっている、そういうことになっているわけです。

そして、徐々に本題に切り込んでいきながら、これについては率直に言っても良いけれど、瞑想、臨死体験、哲学、呼吸、エニアグラムミラーニューロンなど、一見すると多岐に渡る分野の書籍にあたっている人は、一体どのような人であるのか想像がつくでしょうか。

先ごろ出版された代々木忠監督の『哲学としてのセックス』(幻冬舎新書/2018年)は、このようなことを取り上げながら、ご自身の80年あまり生きてきて得た経験や考え、または仕事を通じて知り得たことが不可分であるようにまとめあげられています。

そして、内容としては今までの言説や知見を今一度囲うようにしていて、文字通り「完結編」と謳うのが良いのでしょう。

個人の、ひと夏の読書感想文として仕上げてみるのもアイディアのひとつですが、これは多くの人の目に触れて、今一度しっかり考えてみるべき一冊のようにも思います。

それだけに割愛も大いにしていきますし、主たる内容を取り上げることもしないだろうけれど、いくつかの観点はあくまでもベースとして、そこはかとなく織り交ぜていければ良いなと思います。

そして、それはベースであるがゆえに、真っ先に気づくものでもないでしょうが、味噌汁の"だし"のようにじわじわと効いてくるようにも思うもので、同じように感じてもらえたら本望ということになります。

かねてより言葉にしてもいるのですが、性の話やお金の話はなかなか会話の俎上には上がってこない類のものになっています。

あってもホニャララな人数や回数の多い/少ないとか、誰とヤッた/ヤラないとか、だいたい下世話な表現に終始してしまうのが、まことに残念でなりません。

そして、本の内容も加味してみれば、何をもって「普通」とするのかは言いがたいものですが、きわめて「普通」に過ごしているのではなかなか行き着かないようなことがあるものです。

少なくとも自分においてそうであるし、身近でこんな類の話をする人を見かけたこともありません。

もしかすると、これまでにも身近にいたのかもしれませんし、自分から働きかけなかったから知り得なかっただけなのかもしれません。

このあたりは、ひとつには「類は友を呼ぶ」ことのコツ(THE ART)を知らなかった、自分自身の不徳のいたす、ひたすらそのあたりになります。

それはそれとして、ここの領域を上手に掘り下げていくと、単なる肉体や精神をはるかに凌駕するような貴重な知見に行き着くので、知らないよりかは知っておいた方が良いわけです。

わかりやすい言葉で言えば"悟りを開く"ことができるのではないか、少なくともその手立てやヒントの重要な部分を知っているかもしれないと思うようなものになります。

人によっては、"開眼する"と言い替えても良いかと思います。

それだけに、機会があればとことん話し合ってみたいなとも思うわけですが、今は自分自身の内側で考えを広げて、かつ、しっかり深めていくことが良いことのように思います。

聞かれれば余すところなくお伝えしようとしますが、言葉遣いや発想の仕方において、あらかじめ敷いておきたいことが既にそれなりの多さであるために、本題に突入する前に、興味・関心がどこかに行ってしまうことも考えられるものです。

だから、普段はだいぶ物静かに過ごすくらいで、しかも「あの人、何考えているの?」と思われるくらいで、自分自身は至極安寧な気持ちでいられるものです。

内心ではこういうことが渦巻いているし、今年の年明けからの一連の投稿を覗いてもらえれば、それなりに首尾は一貫しているように思います。

また、こうして先を促すように進んでいることで、余人をもって替えがたいほどに不思議な境地に向かっているような気がします。

それゆえに、物事を観察する態度が加速するものですが、だからといって、それにとらわれているわけでもないのが、余計にわかりづらい境地にいることになるのだなと思います。

一定の"こだわり"はあるけれど、偏って"こだわり"を持たないことが"こだわり"でもあるので、裏の裏が表であるように、一周して元の位置にいるのだなと思います。

それでも、実は一周している分、何もしないでいるよりかは立つ位置が変わっているかもしれませんし、前進だか高みだかに歩みを進めているのかもしれないわけです。

先の例にあるように、口を開かずとも思うことでは、たとえば、道行く人でも身近な人でも構わないのですが、「その人が一体どのようなセックスを行うのか」、そういう観点で見るとその人の本質をグイッと引き寄せるようにして、知ることができるように思います。

あるいは、「どのような歩き方」をするのかがその人の本性を反映しているなとも思っていて、それとなく観察を続けています。

それはさておき、決して「あなた」と「私」でいたすーわけではなくて、他の誰でも、その人が誰かと真っ向から向き合う時に、どういう振る舞いを行うのかを知ることで、どういう考えや行動のもとに普段を過ごしているのかを擬似的に知ることができます。

経由して、ほんのりとうかがい知ることができると言っても構わないのですが、ごまかしも虚勢も張れない時にどうであるのかは、かなり大切なことのように思います。

これは、後にも詳しく述べたいことでもあるのですが、平素何を基準として考えたり行動したりするのか、その人なりの固有のものがあると思います。

それと連動するように、目の前のあれこれに対応して日々が営まれていくのであれば、たとえば、何をもって"幸せ"と思うのかで、幸せの感じ方がそれぞれにあることになります。

それについては、個々で自由に思えば良いことなので、取り立てて何を言うことはいたしません。

これを敷衍して考えて見ると、多くの人にとって、勝手がわからない、どうしたら良いかの正解がわからない状況や事態がしばしばあるかと思います。

そのような、ある意味土壇場にある時にどう振る舞うのか、その振る舞い方がその人の本性が垣間見える瞬間なのかなと思います。

普段は饒舌に何でも話すような明るい人でも、誰かと(しかも一糸まとわない姿で)向き合う時に、素直に「好き」とか「こうしてほしい」とか自分の感情や気持ちを言えないし、それを不自然なままにためらっているということがあるわけです。

それも、急にノドが詰まったように言えないとなると、よほどのものがその人の中にあるのだなと思うわけです。

こういう光景を目の当たりにすると、「あー、こちらの持っていた(最初の)印象とは異なるものだな」と、何だか不思議な気持ちになるものです。

また、似たようなことでは、普段いろいろと強い抑圧を受けているがために、深く呼吸をすることができない人も随分と多くいるようなのです。

意識・無意識と呼吸では関連がないようにも思うものですが、素直に感情を言えない、姿勢の悪さも相まって呼吸が浅いような人がいて、パッと見は問題がなさそうでも、抱えているものが重大だという人が意外どころか、随分と多いような気がします。

いくら外見を着飾って整えたとしても、内心ではとか、本心のところではとか、当の本人にとっても周りの人にとっても何もわからないことは多いのかもしれません。

これは同時に、自分自身を少なからず偽ろうと思っているのかもしれませんが、自分自身のことをしっかり知らないでいるうちは、他の人をしっかり知ることなどできようがないように思うものです。

奈辺をこのあたりとしてみると、普段、色恋だなんだとやっているような場合でも、スタイルがどうこう、大きさやカタチがどうこうということは、実際にはほとんど関係がなくなってくるように思います。

見た目でどうであるかは多くの人にとってわかりやすいものですが、"一緒にいること"と"仲が良いこと"は決して同じではないことにも気を向けなければなりません。

あるいは、何回デートをしたから親しさが何%増したということでもなくて、どれだけ親密になることに真摯であるのか、決して測れないところが大切になってくるのでしょう。

また、相手を知ることが自分を知ることにもつながってきて、相手との差異や共通項が浮き彫りにしていくものです。

こういうことを下卑た感じにもならず、揶揄するようなことにもしないで、「今日の空は、快晴でサワヤカね」くらいの、きわめてライトに語れると良いなと思います。

基本的には、こういうのは"秘め事"であって、個別にイチャイチャしたり、よろしくやってくれれば構わないのですが、一方では人類・人間存在に共通のものでもあるわけです。

それなりに、経験や知識を持ち寄ることもできたら良いし、より良いもの、より本質に近づくであろうことを、忌憚なく話し合えたら良い気がします。

話が広がるがゆえに、今のところはまだ収束するようなことはなくて、さらに思いつくままに展開していけばどうなっていくものか、しばらくは続けていこうかなと思っています。

だいたい今回においては折り返し地点を過ぎたあたりとも思うので、「まだ半分か!?」と思いつつ、後半も読み進めてもらえたら良いなと思います。

むしろ後半の方が長くなりそうです、そして3部構成へ・・・。

果たして、個人的に、恋愛においてのパートナーはどういう人が良いのかを考えてみようと思いますが、端的に言えば「一緒にいて、賦活されるような人」ということになる気がします。

"フカツ"だからと言って、決して深津絵里さんでなくてよ(ステキな方ですね、最近は映画や舞台を中心に活躍のようです:余談)。

一緒にいて刺激になる、頭をより使うとか発想が柔軟で素晴らしいとか、そういう自分の内側にあるけれど、誰かといることで知的活動がグイッと促進されるような感覚をもたらしてくれる人、そんな人が良いなと思います。

見た目においては、笑顔の似合う人、このあたりに小林正観さんの「そ・わ・か」の法則が働いてくるのですが、今回はそこには触れないで、やがて詳述することになるのかどうかなくらいに留めておこうと思います。

時折頭をもたげるような発想として、自分自身の、基本的な考えや性質は変わらないわけですが、時期であったり、日々の積み重ねであったり、その時々の成長・変化があります。

何もしなくても年齢は加わっていくので、自分自身の雰囲気や考え方も、何かしらは変化していくものです。

また、極端な話では、一週間も経てば何もしなくても手や足の爪が伸びていくように、あるいは、カラダの細胞が順次入れ替わっていくように、どこかしらかは変化が訪れるものです。

そういう、時間の経過そのものに準じるように、自分自身もいつも変わり続ける存在でいたいし、それがより良い変化であるようにしていきたいものです。

変わり続けるということでは変わらないために、たとえば出会った頃のままを期待されるとか、ある時点での雰囲気のままでいてほしいと言われるようでは、ともすれば窮屈な思いにとらわれるものです。

場合によっては、体型が変わることもあるでしょうし、着る服の雰囲気がガラリと変わるということもあります。

それゆえに、殊更に言われるようなこともないように、そういうことは口を衝いて出てこないように、かつ、無言の圧力もないようにそっと距離を置くようにしてしまうものです。

自分自身でそう思うように、相手に対してもむしろ能動的に変わり続けている方が、好意を抱きやすいようにも思います。

そういう方がかえって安定しているということで、福岡伸一さんの「動的平衡」の発想を持ち寄ってみると良いかなと思います。

もっと身近なところでは、ゴハンを食べては排泄を繰り返して生きていくように、独楽(コマ)もクルクル回り続けているから安定していると見ることができるわけです。

今のところ、これを尋ねられたことがないので、これ幸いなりと思っていることのひとつとして、「アタシと有紀、どっちを選ぶの?」という質問です。

必ずしも知り合ってからの月日ばかりではありませんが、昨日今日会ったくらいでの関わりでは、こういう質問はいかがなものかなと思ってしまいます。

無論、これに対しては(今は)ほとんど即答で「有紀」であり、これが答えに窮するようであったり、いくらか逡巡したりするのであれば、もしかするとコトなのかもしれません。

そういう「あなた」はそれだけ得難い存在であり、唯一無二の存在なのかもしれないと思うわけです。

これは単純に性別とか、性格の合うとかいうことではなく、理屈を越えたところでの「出会い=邂逅」なのだということなのでしょう。

人が人として生きていくためには、多くの人の間に立っていることが必要になってきます。

それでこそ、動物としてのヒトでなくて、"人間(にんげん)"になるわけです。

ただし、それは必要条件であって、十分条件ではないように思います。

この、必要か十分かのような言葉を用いずとも、条件を満たすための要素がいくつかあることを知っている人はどれくらいいるのでしょうか。

あるいは、人と出会うこと自体が目的でなく、出会って何がはじまるのか、何をはじめることができるのかを知ることも大切な気がします。

これは、目的と手段かみたいなことにもなるのですが、自らの思うところの仔細を聞かずして、判を押したように配慮も工夫もなく言われると、何としてもコトの比重を見誤るのは避けたいなという気になるものです。

そのためにも、拙速で迂闊な発想をしないように、普段からしっかり知性を発動させておこうとも思うものです。

最近の、自分自身の場合では、ひとつひとつの出会いを楽しんでいるだけであって、特定のこういう人に会いたいというわけではないのです。

今回の話で言えば、代々木忠監督に会いたいなと内心思っていたとしても、他の監督のことを言われたところで、比較するものでもないし、代替できるものでもないのです。

これは、たとえばプロ野球選手に会いたいからといって、熱心な巨人ファンの人に他の球団のスター選手を合わせるようなもので、確かに光栄なことかもしれないけれど、そうじゃないんだよなというミスマッチが起こっているわけです。

そして、特定の誰かに会うような単純なことでもなくて、多くの人とそれなりの場数を通じて知り合っていくうちに、そのうちの何人かと親しい交流をするようになるか、ならなくても良いけれど、せっかくなので、なったらなったで楽しそうだなという感覚でいます。

何かをしたいから出会いを求めているわけでもないし、出会いが多くあれば他に何もいらないわけでもないのです。

出会いの先に望む何かはあるとしても、手が届くかどうかは次の話になってくるので、自分自身、今はそれに向かっていること自体が尊いのだと思っています。

こういう考えの順番とか理屈とかを解き明かしたいと思うし、今は入れ替えるように考えているところもあって、それだけに説明を丁寧に繰り出さないと、思うところのいくらかを伝えることはできないような気がします。

この場合で言い方を変えてみると、"出会うからはじまるのでなく、はじめているから出会う"のだと言えるかもしれません。

もう少し具体的には、『ワンピース』において、ルフィが海賊王を目指しているから仲間(クルー)のひとりひとりに出会っていくわけです。

ゾロやナミに出会ったから、海賊王を目指そうかな、ウソップやサンジに出会ったから余計にそう思ったということにはなっていないのだと、それはわかってもらえるかと思います。

海賊王になるにしても、誰かと出会ったり、誰かを倒したりしたからなれるようなものでもなくて、目も眩むような金銀財宝を手に入れたからなれるようなものでもなくて、いつの間にか名実ともにそうなっているものなのかもしれません。

ルフィの場合とどことなく対照的に思うのですが、"白ひげ"の場合では、当初は海賊王を目指していたかもしれないけれど、やがて家族(ファミリー)と呼べるような仲間たちと旅を続ける、それ自体に価値を見出しているわけで、これはまたひとつの望むものとかなうことが一致しているケースのように思います。

白ひげの思いを汲まずして「海賊王を目指さないのは日和ったからだ」みたいなことは決して言えないわけです。

自分自身の場合でも、シャンパン100万本手に入ったから「達成でーす!」、自宅にナイトプールがあるから「幸せでーす!」みたいなことを望んでいるわけでもないし、それなりに抽象的であるかもしれないけれど、これを目指さずして何を目指すのかという感覚の元に推し進めていることがあります。

言い換えれば、目標は相対的なものであるし、個人がそれぞれに何を思っているのか、目に見えない部分が大きな意味を持っているようにも思うものです。

本音を易々と言うことができるのか、嘘や偽りは良くはありませんが、冗談や戯言でやり過ごすこともないわけではありません。

発言する方としての心構えや姿勢としてもそうですし、これは尋ねる側の力量にも関わるところでもあるように思います。

良きインタビュアーは、的確な質問を繰り出すがために、良い答えを引き出すことができるものです。

概ねのところで考えれば、音楽のアルバムのプロモーションをしているのに、遊園地で好きな乗り物を聞くようなことはしないわけです。

真率に語ろうとする自分自身においては、玉ねぎの薄皮を、一枚ずつ剥いでいくようなもので、丹念に言葉を紡いで、それでどうにか思っていることを伝えようとするものです。

しかし、それはこちらの内側で調整もできるようなことで、相手にとっては果たして、それが本音なのかどうかの保証はどこにもないわけです。

言い換えを多用したり、言わないことで伝わったりすることもあるでしょうし、伝えようとしていても言葉が伴わないこともあるでしょう。

それがまた、自分の言える/言えないを選択する葛藤かもしれないし、相手との信頼によるものかもしれないわけです。

どちらが先に立つのか、譲り合ってばかりでもいけないし、我先にと立ち上がるのも具合が悪いとなれば、どうするのが最適かということも断定的には言いにくいなと思います。

たとえば、相手の言い分や性格をうかがい知るのに、断片的な、ともすれば支離滅裂な質問をつないでいくものです。

生まれは?年齢は?家族構成は?のようなところから、趣味・特技や今の興味・関心にまで及んでいくことでしょう。

ただ、基本的にその人がどのような姿勢・心構えを敷いているのは、部分を寄り集めたところで全体にならないように、どの断片が欠けているかどうかの切り口でない場合があります。

できる限りはひとつひとつの部分も尋ねるし、同時にまた、全体からも探っていくことが大切で、異なる観点から組み合わせながら切り込んでいくことも必要になってくるものです。

まったくもって続くばかりの今回において、無事に最後はミラクル回転にて着地できるのか、今は定かではないけれどやがて終わることはわかっています。

ある程度の一貫性でもって取り組んでいるだけに、散らかしたままで終わるということはありません。

伏線も、別に伏線と思って張り巡らしているわけではないし、"ハウダニット"や"フーダニット"の類でもないので回収しきれなくても構わないことでしょう。

そんなこんなで、"これで終わります"【PART III】をお楽しみくださいませ。

人それなりに生きていくと、長年の習慣やクセみたいなところが、その人と不可分になってくるもので、どのような言葉遣いをしているかが、その人を表していることも多くあるものです。

前向きな人は、いつも好意的な解釈をする傾向にあるでしょうし、そうでない人はそうでないようになっているものです。

このあたりの、「文体とエクリチュール」という関係が興味深いところでもあるのですが、とにかく、どのような言葉遣いをしているのかで、普段の生活がどう動いているかにつながっていくものです。

そこに付随すれば、場合によりけりというところもあって、基本的なところとその時々の、ある意味臨時の対応をすることがあります。

そのためには、いくつかなのか、いくつものなのかは好みで良い気がしますが、複数のスタンダードを自らに設けておいて、その時々で対応するのが良いと言えるでしょう。

うどんやそばの麺打ち職人が、その日の気温や湿度によって麺に含ませる水分の量を調整するように、巧みに使い分けることに似ているように思います。

それを、ひとつの"ゆらぎ"と呼ぶのかもしれないけれど、向こうへ振れてこちらに振れてとなりながら、意外と一定の範囲をたゆたっているものかもしれません。

そういうものを知っていてやっているのと、何となくの感覚でやっているのでは、見た目は同じでも、内実は雲泥の差ということもあるはずです。

しっかり厚みのあるサーフボードにつかまって波間にゆらいでいるのと、何もつかまるものもなく、波に翻弄されるがままに揺れているのでは、似ているようでも随分と隔たりはあることでしょう。

しかも、こういう"ゆらぎ"が、思考や感情において浮き沈みのあるような上下の動きでなく、より多彩であるという方での左右の振り幅につながるのであれば良いように思います。

自分自身においては、こういう不安定さが、かえって気持ちを落ち着かせることになっているのではないか、最近は特にそういう考えのもとに日々を過ごしています。

果たして、人はそれぞれわかり合えることができるのでしょうか。

あるいは、人は、わかり合えない。

そのように考えることも、必ずしも誤りとは言えないものです。

なぜなら、自分のことだって、何を考えているかわからないのだから。

しかし、このような問いかけに対して、「お互いにわかり合えないよね」というところで合意が取れるような、そういう頭の使い方ができるのは、だいぶ建設的であるように思います。

また、無駄を排するように即座に解決にしてしまうのと、迂回を多く経ても知的負荷がかかる方では、自分自身は後者を選んでいきたいと思っています。

そして、わかり合えないところを数え上げるより、それは随分と少ないかもしれないけれど、わかり合えている方をうんと大切にした方が良い。

これもまた、コップに半分ある水をどうとらえるのか、考え方と日頃の習慣による賜物と言えるでしょう。

さらなる問いかけになりますが、自分の生まれてきた意味や、生きていく意味を、あなたは言うことができるでしょうか。

自分自身で、「さて、生まれて、いっちょ生きてみるかー」と思って世に出ている人が(ほとんど)いないように、ポンと生まれ出た瞬間から時を刻みながら生きることがスタートします。

ある意味では本人の意思どころでなく、時間や場所や置かれている状況など人それぞれで、しかし、否応無しに生きることをはじめていくしかありません。

どのような境遇であるのかも選び取れませんし、それ自体その人固有のもので、誰にとっても余人をもって代え難いわけです。

ただ、誰にとってもその人固有であるということは、孤独の裏返しでもあって、それだけに出身地や年齢が同じであると妙に嬉しくなるのは、他の人と自分の間に、何かしら共通点があるという喜びが大きいのかということが考えられます。

どうやって生きていくのか、それは一筋縄ではいかないかもしれないけれど、目の前のことに精一杯取り組んでいるうちに、やがて長い年数を経るうちに、生まれてきた意味を知ったり、生きていく意味がわかってきたりするのかなと思います。

今、それなりに生きてきたからわかることがあって、これが過去のどの時点でもわかり得てはいないなということがそこかしこにあるものです。

ようやくまとめに取りかかっていこうと思うのですが、自分なりの物事を見るモノサシのような、判断の基準となる考えを持っていると良いと思います。

こういうものを、まさしく規矩として持っておくことで、取り組む具体的なあれこれは異なったとしても、根底にあるものは似通っている場合があるものです。

何を食べるにしても、箸やスプーンを使うかもしれないけれど、何か取ったりすくったりして口に運ぶことでは共通していると考えるような感覚です。

そして、一歩でも前へなのか上なのかはわかりませんが、歩を着実に進めていくことで、世の中の真理や本質に近づいていけることでしょう。

少しずつであっても、そうなれるように、日々を大切に過ごしていきたいと思う次第です。

魂は崇高なるものだけれど、この世で生きている限り、現実的には肉体を介さないとどこにも行けないものです。

また、心が動けば涙が出るように、心やカラダは決して別個のものでなく、ひとつなぎのものでもあります。

心と魂は似ているように思いますが、心の深いところにあるのが魂と考えると、これもまたつながっていると考えられます。

魂は別に扱うとして、そうして、心とカラダ(肉体)、思考や論理を司る頭(あるいは、脳)とをセットにして考えてみると、決して頭でっかちになるわけでもなく、行動で動き回るだけでもなく、感情に任せるがままでもないことになってきます。

これら3つと魂の、取り上げ方や組み合わせはいくつかの例があると思いますが、頭で考えながら、心とカラダを使いながら魂の充足を図るのが良いということはひとつ言えることのように思います。

こういう結びつきは、決して目には見えないものだけれど、だからといっておろそかにしてはいけないものでもあります。

ここまで述べておいて言うのも妙なものですが、自分自身は決して論理・理屈のタイプではないのです。

自分自身が普段何を考えてみるのか、それを知ってもらいたいがためにあれこれと述べているのもありますが、それ以上に、しかるべきところにはとても有用な知見が蓄えられているということ、その事実に意識を向けてもらいたい思いが強いものです。

それだけに言葉や例証を多く持ち出して、(もちろんヴァーチャルな)紙幅を費やしていき、何か説明をするとか、自分の考えを披瀝するような場合では、とことん"情理を尽くす"ことを心がけています。

時間や分量の限りはありますが、それにしても「感情*論理」の組み合わせになります。

そして、今は特に観念的な領域にも飛び込んでいて、これはまた少し軸層が異なってくるものになります。

それぞれ固有に大切なものでもあるし、「あなた」と「私」の相互の関係によって引き立つもこともあるでしょう。

そういうことを介在しながら、お互いに、世の中の真理や本質にまで届いていけると良いものです。

海賊の宝箱も、たしかに空の箱が多いのかもしれないけれど、ずっと開け続けない限りは金銀財宝を収めるものにも巡り会うことがないようなものでしょう。

石をひっくり返してみるとダンゴムシが多くいるのは、苦手な人もいるかもしれませんが、それにしても石をひっくり返し続けないことにはダンゴムシの多くいるところもわからない、そういうことをそれとなく感じ取ってもらいたいものです。

先述の「文体とエクリチュール」にも関連して、何かを言おうと思っている場合に、言葉を駆使し、文体にも気を配りながら推し進めていくことになります。

ただ、言葉や文体は、ここから遠くだか深くだか行くために用いる乗り物や地図のようなもので、それ自体が目的ではなく、あくまで手段に過ぎないものです。

これらを熟知し、いかに使いこなすかによって、思考や感情においても未だ知り得ぬところまで行き着くことができるようにも思うものです。

日本語にしても、それ自体にある叡智や極意みたいなものがあるために、普段の会話で出ている語彙や表現など、かなり限られたものであることでしょう。

いかに考えを深めるのか、いかに多くの人に訴えかけることができるのか、そういう営みを繰り返したり、内容や表現において上達したりしていくことで「人と成る」のであれば、言葉や文体でもって人格陶冶をするというのは平仄が合うことのように思います。

そして、それを目指していきたいとも思うものです。

今回はだいぶ長くなりましたが、これだけ述べていけば自分自身にも、そして、ここまで読み進めてきた「あなた」にとって、もたらす何かがあることでしょう。

その中に、少なからず共感するところがあるようであれば、「類は友を呼ぶ」ように、良きつながり・結びつきが生じる可能性があることになります。

少なくとも、ここまで読み進めてしまったからには、引き返さなかっただけの理由や背景があるのでしょうし、かなりの忍耐・忍辱の備わっていることの証左であるように思います。

今の時点で狙っていることは明示しにくいものでもありますが、何かしら"閾値を越える"ためにもこれだけの分量が必要だったということはあったのでしょう。

また、何かの折には、もう少し読みやすい分量と内容においてお届けできたら良いなと思います。

次にお目にかかるのはいつになるでしょう、再会の時を待ち望むその時の流れが、今は心地好いと言うことができるような気がします☆