今年の総括<保存用>

 

長い、それゆえに目を通さない人もいれば、長い、それゆえに目を通す人もいる。

もちろん、文章を綴るにあたっての大切な作法(マナー)のひとつとして、多くの人にわかってもらいたいと思いながら丁寧に&丹念に綴っていくわけですが、しかし、必ずしもほとんど全員の人に届けば良いと思っているわけでもありません。

少なくとも、こちらとしては単純に字面を追うばかりでなく、しっかり内容をわかってもらえる人を望んでいることもあって、長いがゆえにいつの間にか読み通してしまうとか、時々は思わず首肯してしまう、そういう稀有な人と交流を持ちたい=辱知の栄を賜りたい思いが強くあります。

それは、歩いて数分の距離を雑談しながら行くばかりでなく、ともに長く遠い旅路をともに進むような、ある程度多くの距離や時間を過ごすことがお互いの理解につながることに似ています。

何でだかわからないけれど引き返すことを忘れ、何を書いているのかが気になってしまい、目で追っていくうちにうっかり全部読んでしまった、そういう人に対しても強い好感を覚えるもので、いわば長さを多く持つことで読む人を"ふるいにかけている"というのはあるでしょう。

また、どれだけ読んでいる人のひとりひとりにまで届くのか、せっかくのことだから心のうーんと深くにまで行き渡るようでありたいし、その人の知性だかか感性だかに訴えかけ、より大きな広がり=可能性を持ってもらいたいという思いもあります。

端的に言えば、いくらかでも考えるキッカケになるだとか、いくらかでも滋味深いものにでもなれば、きっと読んで良かったという感想を持っていただけることになるでしょう。

それだけに自分自身もどれだけ踏み込んでいけるのかが大切で、決して力まないけれどゆらゆら揺れていきながら、あなたと私、あちらとこちらの境界線を自在に越えていけるようにしっかりと挑んでいきたいわけです。

どこの誰にどれくらい届くのかはわからない、それでもこれは自分の読むものだ、あるいは、ひとまず読んでおこうかしらと思う人に届くようでありたい。

これは「メッセージの宛先」に関わることで、こちらとしてはいかに呼びかけていくのか、それと同時に、受け取る側にとってもいかに受け取っていくのか、その双方を文章を成り立たせる両輪として進めていくのが良いと思っています。

そういった両輪の兼ね合いを取りながら、前に進んでいくことでどこかにたどり着くでしょうし、それはまた意図してたどり着くどこかであるように思います。

今回はまた、(もちろん)バーチャルな紙幅をたっぷり用いていきたいために、全体としてはおそらくだいぶ長くなるでしょうが、言いたいことが言えたら終わりなので、案外さっぱりと済んでしまうかもしれません。

どうぞ時間の許す限り、コーヒーかお茶でも飲みながら、つらつらと読み進めてもらえたら嬉しい限りです。

どんなことでもそうですが、何事にも必ずはじまりがあれば終わりがあるように、それがいつまでもずっと続くということはないものです。

余談ですが、この(相当に長くなるであろう、あるいはそうではないかもしれない)文章にしても、こうやってはじまってどこかで区切りがついていって、ひとまとまりになっていくことは言えるわけです。

iPhoneMac BookでおなじみのApple社、その創設者である故・スティーブ・ジョブズ氏の言葉にあるように、

"If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?"

「もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは 本当に自分のやりたいことだろうか?」

折に触れて、この問いを自分に突き詰めてみるのが良いでしょう。

今を生きている人も、50年後ならばまだ存命で健在かもしれませんが、200年後にはきっと誰もいなくなっていることでしょう。

蛇足ですが、単に言いたいだけの"魔暦"、この"魔暦"で生きる人にとっては、10万飛んで何歳ですからこの限りではないような気がします。

デーモン閣下公式サイト - H.E.DEMON KAKKA'S

それはさておき、もしも今日が最後の日だとしたら、あるいは、今日を限りの生命(いのち)と思えば、この一日をいかに過ごすのか、にわかにその切実さが際立ってくるのではないでしょうか。

「武士道とは~」のくだり、「武士道と云うは死ぬ事と見つけたり」(『葉隠佐賀藩士・山本常朝/1716年ころ:江戸時代中期)を引き合いに出すばかりでもなく、終わりがあるのを知ってこそ、ようやく生きることを知るのかもしれません。

とにもかくにも花咲く命ある限り、懸命にやっていきましょう。

それでも、終わりがあれば、次のはじまりがある。

今のタイミングで何をはじめたいのか、そのひとつには「甲斐の虎に、おれはなる」がありまして、その詳細は続く内容に展開していきたいと思います。

詳細については、もっと詰めていったり、展開していったりする必要がありますが、水面下では着々と進んでいる(と信じてやまない)ものです。

まずはそうなりたいと思うこと、それがあって行動や思考の繰り返しがあるわけですから、今日のここからというような明確なはじまり&スタートラインがあるわけではありません。

ただ、具体的には、16世紀の戦国時代に活躍した武田信玄公(以下、敬称略)、彼の異名が「甲斐の虎」なので、それに大いにあやかっていこうではないかというのがあります。

ちなみに、生きていりゃいろいろあるわいな~にちなんで、意識階梯の話題や代々木忠監督の言説にも及んでいきたいわけですが、"人は悲しみが多いほど、人には優しくなれるのだから"(「贈る言葉」/海援隊)でお馴染みの武田鉄矢さんも含め、そこからはじまる話についてはまたどこかの機会で触れていこうと思います。

こちらではほのめかすくらいで、各自追求していくのでも構わないように思います。

また、数多くいる武田さんのひとり、武田真治さんも最近では筋肉でスゴいことになっているようです。

そんな武田さんの良いなと思うひとつに、トレーニングにおいては「キツイな」と思うことが(だいたいいつも)ありますが、そういう時には「効いている」と言う、または思うのがこの場合の正解だそうです。

その発想を参考にしていくにしても、それ以上はまだ不案内なので、今回には特に触れるところではありません。

武田さんは武田さんでもここでは武田信玄を取り上げていきたいのが、ここでの内容になっています。

「人は城、人は石垣、人は掘。情けは味方、仇は敵なり」や「風林火山」で知られる武将・武田信玄

この「風林火山」をたどれば中国の孫子になり、こちらも『孫子の兵法』でもって掘り下げるとまことに興味深いのですが、そこまでいかなくても実践的な面では武田信玄に学ぶところが多くあると思います。

【孫子の兵法①】〜世界最高の戦略書〜 - YouTube

【孫子の兵法②】〜曹操・徳川家康・ビルゲイツの愛読書〜 - YouTube

この、武田信玄の名前は多く上がるものの、意外と歴史資料が少ないように思いまして、ひと通りの経歴はなぞれても、実際どういう人であったかの仔細はあまりわからない気がします。

残っている逸話のひとつとして、天下を取った徳川家康(敬称略)が、残った武田信玄の家臣団を引き受けたというのがあって、そこに人の多くを束ねた武田信玄の人柄や人望とか、徳川幕府が長く続いた理由や背景があるように思います。

それくらい何か素晴らしいものが見て取れるでしょうから、いっそ眼光紙背を徹するくらいの意気込み・気迫でもってその秘訣やコツを学んでいきたいものです。

戦国時代の大名と家臣の関係を今に置き換えると、経営者と従業員の関係のようなものになるのでしょう、だからといって人心掌握術とか管理の仕方(マネジメント)と言えば、どうしてもテクニック的なことを思ってしまいそうです。

しかし、そればかりで容易にできるわけでもなく、人が多く慕うということには、心の温かさや機微の細やかさのようなものも当然あったように思います。

これはまた、心配り・配慮と言い表しても良いかもしれません。

そういうあれこれが渾然一体となって、チーム・組織としての強さであるとか、次第に一致団結していく過程になっていくのでしょう。

そうことも含め、現地に行ってみないことにはわからないことも多いだろうと思い、甲斐地方、現在の山梨県甲府市に足を運んで、その雰囲気の一端を知ろうとしたのが、この初夏のことでございます。

誰が言ったのかが定かではありませんが、ひとつの定番とも言える発想があります。

むしろ、言い方の違いはあれど、気づいて実践している人の多くが言うことなのかもしれません。

それは、もしも自分の幸せをとことん追求してかなえていきたいのであれば、先に多くの人を幸せにすることでかなう、またはそれでしかかなわないというようなものです。

もっとも自分が幸せであるというのは、もっとも誰かに尽くして、その関わる深さであったり、人数の多さであったりするわけで、その反映や影響であると言うことができそうです。

"情けは人のためならず"とはよく言ったもので、とことん極私的に推し進めていくうちに、それがもっとも個人的なものである場合、全体全部を幸福にしない限り達成できないものなのかもしれないように思うものです。

自分のことではなく、誰かのことを思う、そういうことでの心配や配慮はするというのはありそうです。

そのように考えを突き詰めていくと、自分の身の回りからはじまって、地域全体、社会全体、地球全体、挙げ句の果てには宇宙全体にまで広がっていきそうです。

自分さえ良ければ良いとか、身近な人に対して不親切であるのは、この限りではありません。

また、宇宙については後述しますが、これは個人の生き方としてもそうですし、企業や組織としてのあり方としても通底するものがあるように思います。

もしかすると、自分の幸福のようなものは、地位や名声、お金ばかりではないところでの、ある種の「利益」と置き換えることもできるかもしれません。

ここはひとつ、大いなる仮定として念頭に置いておくのが良いように思います。

このように、自分の幸せとか願いみたいなことを考えていくと、何だかんだ言いはするけれど唯一無二の自分自身だもの、思いっきり幸せにしたいし、思いっきり満たしていきたいわけです。

そこでは、誰かを押しのけてどうのこうのではないところで、自分のことを大切に思う強さがあるかどうかに関わってくるのでしょう。

最初からではないにしても、いずれはそうしていきたいところで"我欲は強い"、そのように表すこともできるかもしれません。

「楽しいから笑う、笑うから楽しい」、どちらが先かは考えの分かれるところではありますが、楽しいことと笑うことには密接な関わりがあると言うことはできるでしょう。

また、向日葵の太陽に向かって咲くかのごとく、楽しさのあるところ、笑顔のあるところに人は集まるものです。

余談ですが、「咲」は「笑」の古字であり、意味も同様に「笑」のが「咲」に含むものです。

花が咲くように、笑顔もまた多くあるようでいたいものです。

すべからく、笑顔の咲くところ、これはまことにめでたいぞというわけです。

そうやって咲き誇る笑顔のためには、自分が笑ったり、楽しい気分でいたりすることが欠かせません。

自分がハッピーでないと、誰をハッピーにできようか、それに尽きるわけです。

それと前後して、自分が幸せな状態というのは、誰かを幸せな状態にすることですし、幸せな状態であるその深さなり広がりなりが増すほどにそうであるわけです。

順序を前後しながらも、推し進めることは変わらないもので、突き詰めていくと、誰かと自分を分けることなく思いやるのが良いのかもしれません。

誰かの幸せ=自分の幸せ、そう思えるようになればなるほどに、笑顔やハッピーの達人になっていけるのでしょう。

先に誰か、後に自分ではありますが、周りの人や大切に思う人の多くを「自分」というものに含みながら、よりその「自分」の範囲を広げていくし、目の前の誰かのためにをとことんやっていくことが大切です。

これを敷衍すると、あらゆるものを含む=全部ともなれば、その規模は"宇宙"になるということなのだと思います。

大仰に言えばそうでありますが、そういう宇宙的な発想で取り組んでいくのが良いでしょう。

こういうことを実践に移そうとすると、多くの人との関わりが生まれていくうちに世話焼きとか親切を働かせていくわけで、その前のめりな様子では「おせっかい」と考えられるように思います。

今回は割愛しますが、場所を設けることと"おせっかい"について、自分の考えを補強するような事柄があり、目のつけどころはかなり良いということだけは、ここにさりげなく取り上げておきます。

時間の長短はあれど、心の拠りどころ・知的依拠にしている人たちは、"ガチガチの唯物論者"の小林正観さんであったり、"根っからビジネス・マインデッドな人間"内田樹さんであったり、自らそのように称しているくらいの人たちなので、自分自身の本質もまた随分と現実寄りであるような気がします。

ただ、リアルとかビジネスという雰囲気があまり出ていないのもありますし、今はそこにまっしぐらに向かっているわけではないというのもあるでしょう。

むしろ、一旦は目には見えないものであるとか、ファンタジー(空想、虚構)寄りを選り好み、一見すると現実的に結びつかない言動をしているような印象を(今は)与えているかもしれません。

それは近所にある目的地に行くために、世界一周してから行くとか、そのために一年激しい武者修行をして行くような、大きく大きく迂回して向かうようなことに見えるということのようにも思います。

近くにあるのだから、最短距離・最短時間で行けば良いのではないと思うのが、概ね思うところかもしれません。

それでも、そうしないのはできないからではなくて、それ以上にそこはかとなく思うことが別にあると言うのが妥当なところでしょう。

稲盛和夫さん(京セラや第二電電(現・KDDI)などを創業、 日本航空JAL)を再建)が『心』という著書を出していますし、松下電器(現・パナソニック)創設者である松下幸之助さんが運の良いと言っている人しか採用しなかったという逸話が残っています。

経営のプロ、または経営の神様と言われるような人たちが実際に行なっているようなことですから、そういう目には見えないようなことを大切にするのが、かえって大きな利益をもたらすということがある、そう考えていくのが良いのかもしれません。

このようなお歴々な方がやっていることをどうして我々は行わないのか、学んだり真似たりするとことからはじめ、少なくとも何かの参考にはしていきたいものです。

何も知らないでいては何もできるはずがない、できるためにもせめて知ることはしていかないと、何もはじまってはいきません。

それを踏まえながら考えると、グッと屈むから高く飛べる、深く潜ることがかえって空高く行くことに役に立つこともあるということなのでしょう。

最近では"バリの兄貴"丸尾孝俊さんの話をも見聞きしていると、実際のところはやはりそうなんだなと思うことは多いものです。

そういう意味では誰かを蹴落とすとか、出し抜くということではなくて、自らの願望に素直というところで強烈な欲望を人知れず持っている、つまりは強欲だと言うことができるかもしれません。

ここにも"我欲が強い"とか"わがまま"と言える所以が確かに漂うようにしてあるわけです。

それを目に見えてやらないというのが、雄飛のための雌伏のようで良いなと思いますし、上記の各人の唱えることに照準は合っているように思います。

短期戦でどうにかなっても、人生とか生き方とか、もう少し長期戦で物事を見るというのが大切な姿勢・心構えであるかもしれません。

目には見えないとか、考えを張り巡らせるようなことをあまり重視しない場合、きっと村上春樹さんの「地下二階の部屋」、こういう話は理解しにくいのかなと類推してしまうものです。

人の霊的成熟、市民的成熟のために、こういうことも知っていたり、実際の経験としてくぐっておいたりするのが良いように思いますが、生涯に渡ってついぞ関わり合わないという人も多数いるのかもしれません。

普段、私が何を考えているのか、それに興味があろうがなかろうが、なかなか余人をもってはわかりづらいところがあるようです。

小難しいことを考えている?必ずしもすべてがそうであるはずがなく、言うまでもないようなこと、取るに足らないことが多い気がします。

少し自分の心が開いているとか、強い興味でもって踏み込まれているとして、そこで言えるひとつは楽器のドラムの"スウィーベル奏法"があります。

ジョージ・コリアスに学ぶ超高速ツーバスの極意〜奏法解説〜 - YouTube

これを脳裏に浮かべていても、音楽に興味がある、楽器に興味がある、ハードロック/ヘビーメタルに興味がある、バスドラムのドコドコドコと叩くのに興味があることで、どうにか伝わることのように思います。

これも"地下二階"の派生かもしれず、差し障りない会話や誰かに合わせているような会話では、容易に出てくることはないでしょう。

本当に思っていること、本当に脳裏に思い浮かべていることは、よほど信頼関係があるとか、本当に興味を持っていることがわからないと開示しないものです。

そして、開示したところでわかりづらいとあれば、その"わかりづらさ"そのものを隠蔽してしまおうというのが、せめてもの思いやりかなと思います。

もしも私が誰かに好意を寄せている、あるいは、誰かからの好意を感じたいと思うならば、素直に思っていること=(今回の例では)スウィーベル奏法を会話の爼上に乗せることがあるかもしれません。

また、文字通り"地下二階"にいる例として、秋の深まる頃のCIRCUS MAXIMUSのライブ公演が地下二階にある新宿のライブハウスでありました。

個人的にこれは滅多にないような、随分と貴重な機会だったわけですが、ノルウェープログレッシブ・メタルバンド・CIRCUS MAXIMUSの7年ぶりの来日!と言ったところで、そこは知る人ぞ知るという存在なのは否めないところです。

実際にその場にいたということもありますし、それ以外でもライブハウスは地下にあることが多いので、他の機会であっても位置としては物理的な地下にいることは多いように思います。

さらに、行く前・行った後でそこに思いを馳せることや、意識を向けるようなことを含めていけば、"地下二階"的なところにいる時間や回数は多いとも言える気がします。

これが、東京ドームやさいたまスーパーアリーナなどの大きな会場では、実は行っていましたとか、ライブ公演があるのは知っていましたという会話になる可能性はそれなりに高いことでしょう。

それもまた楽しい、大勢の人と分かち合えるというのは醍醐味のひとつとしても、自分自身としては地下に潜みたくなるような気質・性質を持っているというのが、ひとつの長所でもあり、同時にそうでもないもので、どうにも痛し痒しだなと思う次第です。

KISSの東京ドーム公演、グッズ売り場には並ぶけれど本編は見ていないように、やはり潜行することを好む、何でもかんでも開けっぴろげというわけでもないものです。

ここでひとつまとまるかどうかはわかりませんが、どうにかまとめようと試みてみると、それは特に人の本質のところで「地下二階の部屋」があることを知っていると良いなと思います。

今はわからずとも知ろうとすること、そこから見える何かはあるかもしれませんし、いずれ何かに思い至るということもあるかもしれません。

そういうところにアクセスできるようになることで知るのは、人の叡智かもしれないし、あるいは、心の暗部かもしれない。

暗闇にロウソクをかざすようにして、炎のゆらめきとともに目に映るものは、人類に大きくまたがる大きな物語でもあるのでしょう。

もしもそこに何かあることだけでも知ることは、それだけでも随分と有用であるように思うものです。

ただ、そこにアクセスして、また戻ってこれるのであれば良いけれど、それは知的に、体力的にある程度タフでなければいけない。

わざわざ身の危険を賭す必要はないけれど、そこを"くぐる"勇気、無謀にも似た勇猛果敢さが求められる場面が時としてあるかもしれません。

地下に降りていく、比喩的にも物理的にも降りていく途中にあっても、いろいろな場面、時には困難にも遭遇することがあろうかと思います。

言い換えれば、物事には連なりがあるということでもあって、二重底、三重底のように、多重構造になっているもの。

一見して見えるばかりではないし、見えるから"ある"わけでもない、見えないものはそれでも"ある"のかもしれない、そういうことに次第に気づいていくことでしょう。

だいたいの場合、本当のことは薄皮一枚隔てた向こう側にあるもので、そこでは血肉があり、生々しく脈動があるような感じではないでしょうか。

人の心の中、心の動きにしても、普段語らないからといって"ない"わけでなく、そっと心の奥に秘めているかもしれない。

確かに見えにくいすりガラスのようでも、向こう側にはあるのだから、一定の敬意や畏怖は表すのが良さそうです。

つまり、見えないものやわからないもの、そういうものに対する信奉というか、信心の深さがあると良いのかもしれないと思うものです。

あるかどうかで言っても定かではない、それは字義の通り"ありがたい"ということなのだと、こういう連関がわかってくると感謝の達人への道が開けてこようというわけです。

地下二階に思いを馳せたり、"ありがたい"ものを手繰り寄せたりするような営みは、これはまたどのような物語を自分は生き、また、どのような物語を自分に付していくのかという取り組みでもあるように思います。

それだけ深遠なるもので、同時に幽玄なものだなと思いますが、このあたりの感覚や理屈がわかるというのは、なかなか至難の業かなとも思うわけで、こういう話が共有できるというのは実に"ありがたい"ということは念入りにかつ何度でも強調しておこうかと思います。

今、自分の中にある「挑む気持ち」で言えば、こういう話を普段からお互いに考えている、そういう人たちとの出会いを楽しみにしているのは、ひとつ言えることだなと思います。

感謝の気持ちに付随してもう少し展開してみると、「運の良さ」と「徳を積む」、これが経営の神様・松下幸之助さんの曰く"経営者の条件"であるようなのです。

「運の良さ」というものは必ずしも明らかにはできないものですし、目には見えないものであるように思います。

それでも、あの人は幸運だ、最近ツイているというような会話がなされるあたり、やはりそういう運の向きのようなものはあるのでしょう。

運はあると言いながら、それもまた無限にあるようなものでなく、使ったら目減りするように帳尻は合うようになっているものです。

それだけに、具体的な考え方や行動の仕方を考えるにあたっては、運を強くしていくためにも日頃から「徳を積む」という発想が生じてくるのでしょう。

これも、ドアを押したから向こうに開くとか、ノックをしたから開けてもらえるというような、わかりやすいことにはなっていないもので、それがまた興味深いことのように思います。

ただ、一足飛びにはいかないだろうけれど、そういう生き方を選ぶ、確たる信念を持ちながら選び取っていくのだということです。

先に述べたように笑みをたたえる、あるいは、道端のゴミを拾うなど、ひとつひとつの積み重ねが大切です。

また、人との関わり、仕事においても、こういうことの組み合わせであり、積み重ねが日々の生活となっていくのでしょう。

古く日本では、やはりお天道さまに恥じないように生きる、お天道さまはどこかで見ているという表し方がある通り、そういう大いなるものに見守られていたり、時に助けられたりしているのでしょう。

「徳を積む」生き方は、言い換えれば愛と感謝をいつも持つ生き方、今はまだ十全にできなくともそうなりたいと願えばこそ、導かれるようにしてそうなっていくはずです。

他の人からは「ありがとう」と多く言われるような生き方、そういう生き方をするのもひとつ良いなと思う発想です。

余人をもって代えがたいとか、滅多に会えないような存在、それこそすなわち"ありがたい"ことになるのではないでしょうか。

自分自身をそういう存在に押し上げていく、それもまた大切なことであるように思います。

このように「徳を積む」ことに関しても、随分と推奨していきたいわけですし、大いに実践していきたいわけですが、これは道徳的にこうした方が良いとか、善人として生きることが好ましいということから言っているわけでもないのです。

恭しく額縁に収めて飾っておくようなものではなく、もっと地に足着いて行うような、もっと実地の場面で活かせるものでもあります。

先ほどの余談であるように、日本語においては音が同じである言葉は、意味も近いことが多いという言語学上の研究があり、「徳」=「得」と音が同じです。

この場合では、「損得勘定」の「得」の発想を含んでいるので、必ずしも道徳的に唱えているわけではない、もっと現実的なところからこれを言っていきたい思いがあります。

先述のように、自分が幸せになるためには他の人の幸せをかなえていくことでしかかなわないわけで、見た目からではわからないとか、道徳的に生きているように見えるからといって、その実際に意図するところは随分と強欲="我欲が強い"とか、相当に貪欲であるかもしれません。

それはまた、それくらい強烈なくらいでちょうど良いのかもしれません。

また、及ぶ範囲について言及していくと、「宇宙」という話も取り上げましたが、これもまた言葉の成り立ちから考えていくとまことに興味深いように思います。

「宇宙」と言うと、地球をも含む広大無辺な空間を指すことが多いでしょうが、漢字の字義や成り立ちとしては"時間的にも空間的にも全部"ということを意味する言葉です。

それが、宇宙の絶対法則とか、宇宙の真理とかいう場合には、化学的・物理的なことにとどまらず、"この世界はそうなっている"ということを表すことになるでしょう。

ジョジョの奇妙な冒険』の第3部でジョセフ・ジョースターが語る「確実!そうコーラを飲んだらゲップが出るっていうくらい確実じゃッ!」というような真理であり、世の中の成り立ちなわけなのです。

仕事においても生活においても、当たり前のようにある俚諺や教訓というものは、それだけ正鵠を射るものでしょうから、決して軽んじて見過ごすことなく、それなりに参考にするのが良いように思います。

先進的とか斬新であるというのも良いものですが、永くあるためには、つまり、時の試練に耐えるには、こういう発想を大切にすることもまた含んでのことになるのでしょう。

知っているとか理解しているのも大切ですが、それ以上に、自然の摂理としてそうなっているのだから、そのまま従うばかりです。

どうにも力んで抗うとかそういうことではなくて、そっとすくい取るような軽やかさがあっても良いかもしれません。

もしもそのような大きな流れに乗ることができるのなら、俗に言う恋愛体質のように、ある種の成功体質になっている、あるいは、近づいているということではないでしょうか。

物事が成就しやすい人は、こういう流れにスムースに従っているということが言えるかもしれません。

自分の意見が正しいとか、誰かのより良いとかはまったく興味はなく、それよりも、自分自身がこの世の"正しさ"の内側でいるかを知る方がよほど良いものです。

それは誰かと比べるとか、何かと比べるとかするようなものでなく、単に理にかなっているかどうかだけを気にすれば良いのです。

自分の言うことが正しい、まことに正統であるということを貫いてしまうと、いつの間にかこの世の"正しさ"に当てはまらなくなってしまうかもしれません。

もしも自分自身が正しいのであれば、即刻成功して、多くのものを得ているでしょうが、そうなっていないのは改善の余地がまだあるということになります。

こういうことに陥らないためにも、普段から愛と感謝の気持ちを持つ、または、謙虚さを持ち合わせながら徳を積む生き方を心がけておくことが必要であるように思います。

そこでひとつ思うのは、たとえばひとりの人をとことん大切にするには、そのひとりにとことん向き合うとか、または、多くの人たちとの関わりを通じて「人とはどういうものか」の一定の答え、とらえ方に向かい合う必要があるように思います。

目の前のひとりの人、生涯たったひとりに巡り合うようでも、普段から大勢と親しく関わることができて、それがあるからとことんひとりに没頭できるとも言えそうです。

話し上手になるための一番の近道は、話す場数をこなすしかないことのようなことに似て、そのためにはいろいろな場面や局面を"くぐって"おく必要があります。

千載一遇の機会をとらえるには、万もの実践を通しておく必要があるということなのでしょう、一世一代の大勝負に出るには、逆説的に一世一代の勝負を何度も経てきているのだということです。

これは、珠玉の一冊、珠玉の一曲など、本や音楽、服や食事のようなことまでも、そういうひとつに巡り会うためには、多くのものを見聞きし、体験してみないことには出会えないことに似ています。

またとない機会のために普段から備えておく必要があるとは、一途さと多様さのことを思う時の、どうにも不思議な気持ちになることのひとつです。

か細い糸のような手がかり、それをたどるのはなかなか至難の業でございます。

別に、何かを約束したわけではないものの、自分の中でそっと思っていることがあるよと伝えたい、そういうことでは約束を果たすという言い方になるのでしょう。

もしもひとつかふたつか願いがかなうのであれば、自分の歩みにおいて、そういうことがあっても良いのではないかと思うことがあるものです。

はてさてこれはどうなっていくものか、今日、明日と日々を歩んでいくことでしかわからないことではあるので、これ以上何を気を揉もうかという次第です。

大切に思う人のうち、別に思う大切な人もいるわけですが、それにしても時の経つのは早いもので、今はもうその人の生きた長さよりも多く生きてきました。

これからは、それよりも長い月日を生きていくのでしょう。

それでも、思いは色褪せることはないし、これからもそういう思いは続いていくものです。

「言える」のは「癒える」ことでもあるとは上手に言ったもので、直接的かどうかではなく、自分の中に思い浮かべて断片でも言及できるということは、そういう状態にあるということだなと思います。

もう少し具体的には、2018年いっぱいをもって活動休止となったriceの流れを受けて、2019年の今年はもう少し間口を広げて、今まで行ったことのないバンドやアーティストのライブに行くこと、また、今まで行ったことのない場所・機会に行くことを意識していました。

そういうことを積み重ねていく中では、終わらない夏、自分自身にとって大きな節目となったのが、CYBER JAPAN DANCERSの「BIKINI de LIVE!」@豊洲PITでした。

詳しい内容は別のところで書き記しているのでここでは多く言及しませんが、今まで自分が踏み入れていなかった領域や分野、こういうものに飛び込むというのは大切だということは強調して言っておきたいものです。

他にもいろいろ試したことはあって、今年の夏は熱く、そして長いものだったなという感想を抱くものです。

自分の既成概念を壊すことや先入観・思い込みを取っ払うということも大切なことでして、そのためには、自分がどう思うかどうかは後回しにして、まずは感じ取るというのが良いように思います。

目の前で起こっていること、それが事実であるのだから、それに対してどう思うかは自分次第ということになります。

物事を多角的に見ると言い表しても良いですし、柔軟にとらえるでも良いですし、ひとつの唯一絶対の答えを求めない方が良いのはあるでしょう。

引き続き、軽やかに行動していくし、素直に振る舞ってもいく、そのためには日頃から足腰を鍛えていくし、自分の水準を高めておくと良いように思います。

魅力を出そうと気張るのでなく、いつの間にかにじみ出てくるように、それもまた普段の取り組み方によって現れてくるものなのでしょう。

今日だけの音楽に耳を傾けよう、そして、奏でていこう。

昨日の自分と今日の自分、同じように思ったり感じたりして、行動を起こしたから同じような時間を過ごしているわけで、明日の自分は今日とは異なるように過ごしてみても良いかもしれない。

それは、同じ自分自身ではあるものの、どこか他の人になるようなもの。

振り返ることもしながら今の足取りを見る、そして、求める何かを目指したいがために、今までの自分を整理していくのも選択のひとつ。

あなたに対しても自分に対しても、もっともっと素敵に進んでいけるよ、そんな風に思うものです。

ともかく、今にともなう活動は年内限り、来年の2020年には、新しい場所で、新しいことに着手したい所存でございます。

そのために今は、比喩的な意味での"荷造り"の真っ只中、要・不要の仕分けをしていきたいと思っています。

これはひとつの宣言であり、ひとつの遂行的な事柄であります。

もしも自分の考えや行動が理に適っているのであれば、しかるべき成果や功績のようなものを早々に得ていることでしょう。

それがまだかなっていないようであれば、アプローチの仕方を変えていく必要があるために、その時々で振り出しに戻る(GO BACK TO SQUARE ONE)ことをすれば良いだけのことです。

2019年の取り組み自体は、自分なりに勝手に思ってやっていたことではありますが、とある視点を取り入れてみれば、実はこれは自分の運回りにとって良いことであったようなのです。

だいたいが、思うにしても考えるにしても「言葉」を用いるために、至極理屈や論理を重視するように自分自身が思われがちですが、その「言葉」が感情の動きや機微を表すものだけに、意外と感覚的であるというのが実のところです。

そういう感受性や感覚を信頼できるかどうか、最終的には自分の"直観"を信じることができるのか、これが日々歩んでいく上で大切になってくるものです。

そういうことでは、私は自分自身を信じているので、選んだ道は決して誤っていないし、これからも選んだ道を正解とするように鋭意取り組んでいくだけのことです。

聖闘士星矢』の"小宇宙(コスモ)を燃やす"でも良いし、先の『ジョジョの~』の"波紋を練る"でも良いのですが、そういう心意気を絶やさない、むしろ盛り上げていくというのが、ここでいうところの正しいアプローチの仕方のひとつかなと思うわけです。

士気の高さとかやる気とか気の持ちよう、こういったものも目には見えないものですし、目の前に提示しにくいものですが、熱くそっとたぎらせておこうと思う今日この頃です。

見えないものも大切にしていくと、目に見える何かも変わっていくことでしょう。

季節の変わり目、どうぞ皆様におかれましても、良いお年をお過ごしくださいませ☆